『ニッポンのジレンマ 僕らの救国の教育論』雑感

5月にNHKで放送された、『ニッポンのジレンマ 僕らの救国の教育論』を見て。私的に見ごたえがあったので、出演者の言葉で印象に残っているものや、わたしが感じたことなどを備忘録にしておく。
文脈は無視して抜粋しているのであしからず…。

■司会:堀潤アナ 
■ゲスト:東浩紀 猪子寿之 苫野一徳 石戸奈々子

<前提:冒頭の東氏の発言>
人間の能力には基本的に3つしかないと思っている。
「演算能力」「クリエイティビティ」「コミュニケーション能力」、コミュニケーション能力とは国語力のこと。
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【石戸】旧来の「演算能力」を伸ばす教育(いわゆる受験勉強)だけでは、この先の不安定な世の中を生きるために必要なチカラはつかないと思う。演算能力に加え、コンピューターには代替できない、コミュニケーション能力とクリエイティビティを育てる「新しい教育」の必要がある。
が、一方で、「新しい教育」は定量的な評価ができないというジレンマも。

【石戸】新しい学びの場であるワークショップは、よく「ゆとりですね」と言われるが、実際は試行錯誤の繰り返しで、自分はむしろ「詰め込み教育」だと思っている。また、こういった新しい学びに敏感な親ほど、既存の受験にも熱心。

⇒やはり、まだ大学名がひとつの切符である以上、旧来の知識型の教育と、創造性・コミュニケーション能力を伸ばす教育との、ダブルスタンダードになるのだろうか。それって、ますます子どもにとってはハードルが上がっているのでは…?


【東】そういう、創造性などをはぐくむ教育は、「公教育」の役目ではない。公教育が担うのは、リスクヘッジとしての最低限のライン。最低限の知識とコミュニケーション能力を武器として与えるべき。

【東】自分は、受験勉強で中学高校の時期をまったく無駄にしたと思っているが、一方で受験のおかげで現状があり、(サラリーマンである)親の階級から階級上昇したという、両義的な事実がある。
今はソーシャルネットワークが強ければお金が儲かる時代だし、同じ階級の友人たち(人脈)を作るために、小学校受験させるパターンもある。階級の固定化となったときに、公教育が最低限のラインを担保する必要がある。

【東】(公教育におけるコミュニケーション能力の文脈で)農業や漁業や職業体験でも、いろんな大人に会わせる場をつくる。ミニジャーナリズムの授業のイメージ。いろんな社会人と会うことで、「こんなすごい人もいる!」だけではなく、「こんなやつでもなんとかやっていけるんだ」という希望を持たせる。成功者は一握りである現実と、失敗してもここまでならなんとかなる、ということを伝える。
また、単なるディベートではなく、多様な意見を否定せずに進める「ブレストの司会」ができるようになる訓練が大事。

⇒自分とは違う立場の人の話を聞き、自分の言葉でまとめる力、ということだろうか。ファシリテーション能力というか、荻上チキさんみたいな感じ?


【猪子】好きな人といるためには、自分が何か価値を提供する必要がある。自分のチームは技術者ばかりで営業する人がおらず、仕方なく自分が営業をやってみたら、意外と喋れた。

⇒クリエイティビティ、コミュニケーション能力、技術、営業力、演算能力…自分の得意な分野を伸ばす。で、相互補完しあうチームで仕事をする。
そのかわり、なにかしらの価値を生み出さないと、チームに必要とされないリスクもあるよね。


【東】子どもが子どもであることで自信を持たせるということと、子どもを大人にするというのは全く違うこと。
ある意味クリエイティブな人って子どもっぽい人で、大人になりきれてない人。だから子どもを子どものまま肯定していれば、クリエイティブな人は生まれる。しかしそれでは社会全体がうまくいかない。

子どもを社会化するのが教育のミッションである。子どもが子どもらしくある(猪子さんのような)状態も、それは価値があるのだが、教育のミッションではない。

⇒深い~!のに、整理されていてわかりやすい説明。

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こうして書き起こしてみると、あずまんの発言ばかり心に残っているなあ。
彼の話は深い部分で納得できるというか、腹に落ちる。
やっぱり、著書『一般意志2.0』を読んでみないとだな…。
by chatelaine | 2012-05-30 23:25 | 子どもの教育

欧州大好き、映画や舞台の偏向的レビューブログ。子連れになってリスタート。最近はもっぱら子連れ旅がメイン。


by yukiko
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