ヴィスコンティのような映像美、という触れ込みが気になって、『ミラノ、愛に生きる』を劇場で観てきた。
舞台はミラノの富豪一族。もはや「ミラノ」というだけで、そこはかとなくヴィスコンティを感じてしまうわたし。ポスターの重厚さにもテンションが上がり、登場人物の名前まで、『山猫』でアラン・ドロンが演じた役名「タンクレディ」と同じなので、これってオマージュなのかしらと妄想も膨らむが・・・。 ![]() 主人公はロシア出身だが、ミラノで繊維会社を営む名家・レッキ家に嫁いでからは、ミラノに馴染むこと、一族に溶け込むことだけを考えて、自分の意思を押し殺してきた生活してきたエンマ。 たくさんの使用人を使って大きな家を切り盛りをする姿は、もうすっかり慣れたようでもあり、一方でどこか所在なさげでもある。 エンマの3人の子どもたちはそれぞれ独立する年齢にきているが、長男のエドアルトだけ、なぜかロシア語が話せるのは、赤ちゃんのころにエンマがロシア語で話しかけていたせいだろうか?そんなシーンがあるわけではないが、同じ母として、言葉も通じぬ異国の地で、産後の孤独に耐えようとするエンマの姿が目に浮かぶ。 そんな、家族の中でエンマの一番の理解者であるエドアルト。エンマは、彼の親友のシェフの料理を食べたのをきっかけに、官能をおぼえ、とまどいながらも愛を感じる。 さらに、「私はレズビアン」と、自分に正直に生きる娘にも感化されたのだろう。抑圧された心を解き放つかのように、息子の親友と情を通じてしまう。またこのシーンの描写が古臭いけども美しいのだ。 が、不倫によって身も心も自由を謳歌するエンマへの代償は、あまりにも大きかった。わたしなら、耐えられないほどに。 ![]() さて、確かにレッキ家の晩餐会のシーンは華麗だが、それでもやはりヴィスコンティ作品とは種類が違う、というのが私見。繊維会社は売却し、家族はバラバラに、という斜陽ストーリーのわりには、退廃という雰囲気がないのが原因か。 しかし、ミラノの窮屈な家(物理的にはお屋敷なのだが)と、サンレモの自然のひろがりの対比がすばらしく、自然の中で解き放たれて自由にふるまうエンマは、とても魅力的に映し出されている。昔、劇場で観た、『レディ・チャタレー』の映像を思い出すくらいに。 そして注目の「タンクレディ」だが、エンマの夫である彼は、あまり主張のない役ながらに、裏切った妻に対し、「きみはもう存在しない」と決定的な拒絶を下す。タンクレディの性格が出るシーンはあまりなかったけれども、都合の悪いものは「存在しない」とみなすタイプの人間なのね、という印象。 最後に次男。彼にはビジネスのセンスはあるようだが、いかんせん影が薄く、作品のポスターにすら登場しない。・・・次男、いらなかったんじゃないかな・・・。
夫と一緒に、劇団四季のミュージカル『オペラ座の怪人』を観にいってきた。
![]() 学生の頃からこのミュージカルが大好きで、ロンドンも含めてもう何度観に行ったかわからないけれど、どのナンバーもハズレがなく、いつもファントムに感情移入して泣いてしまう。 ちなみに夫はミュージカルは眠くなるタイプだが、妻が誘えば文句も言わず付き合ってくれるタイプでもある。いいのかわるいのか・・・。 ★過去レビュー(2005年「怪人熱の果て」)(2007年「最高のご褒美」) 今回は2階席の最前列が取れたのだけど、シャンデリアや屋上のシーンなど高い位置の演出があるし、私的にはこの位置が一番観やすいのではないかと思う。 とりわけ、ファントムの「The Music of The Night」と「The Point of No Return」はいつ聴いても泣ける。それは過去のレビューを振り返ってみても、不思議と同じで、何年経っても何度聴いても変わらない。 かなわぬ恋のせつない気持ちと、美しいものに対する憧れと妬みを、あふれる才能で歌い上げるファントム。その歌の才能は、クリスティーヌを畏怖させながらも魅了し、地位も財産も美貌も持つ、完璧な婚約者・ラウルを歯ぎしりさせる。 才能に惚れるのは表現者なら当然のことで、クリスティーヌがファントムを恐れながらも惹かれるきもち、わからなくはない。しかしそのあいまいな態度が、ファントムを期待と絶望にいざなう。 なんて無慈悲なクリスティーヌ。なんて哀れなファントム。涙なくしては観れないわ。 さて、子どもがいると、なかなか好きなときに劇場に行けないので、いつでも自宅で観れるように!ということで、昨年ロンドンのロイヤルアルバートホールで開催された25周年記念公演のDVDを購入。 しかも初回限定版の、CDが2枚ついてくるバージョン。わが家には、CDプレイヤーがないのに・・・。 ちなみに、劇団四季は劇場ごとに託児があり、息子が生まれてから2~3回ほど利用している。いつも2~3人は子どもがいるので、子ども同士仲良く遊んでいるし、保育士さんとほぼマンツーマン体制で安心だ。 浜松町の自由劇場は古い和室だったけれど、今回は海劇場だったので、ロイヤルパーク汐留タワーのホテルの一室だった。部屋は35階くらいで、乗り物大好きな息子は、ゆりかもめが見えて大興奮。 あと、四季には親子観劇室というサービスもあるので、安い席を買って膝上で鑑賞し、ぐずったら親子観劇室に退避するというプランもありかと。 わが家はまだ劇場デビューしていないけれども、ミュージカル好きの同僚いわく、3歳ぐらいになると、子どもの性格によっては2時間大人しく鑑賞できるらしい。今年中に親子でミュージカルデビューすることを目標に、DVDで予習に勤しもうかな。でも、『オペラ座の怪人』は怖がりそうだから、最初はやっぱり『ライオンキング』か『キャッツ』あたりからになりそうな予感。
少し前のことになるけれど、NPO法人マドレボニータ主催の『NECワーキングマザーサミット』に参加したので、そのときに感じたことを、Twitterでつぶやいた内容に付け加える形で、備忘録的にまとめておきたいと思う。
【現状の確認】 まず、サミットでの2回のシェアリングで確認できたのは、現状、強がりでも過大評価でもなく、職場や夫とのコミュニケーションに大きな不満はないということ。 寸劇にあったような、「①ワーキングマザーあるある」も「②育休あるある」も経験したが、今はこうはならない。 あるある①の「子どもが突然の発熱!」の場合、基本は夫婦で予定を調整するが、登録してある地域の病児保育と、100%対応保障の病児保育シッターという切り札を用意してある。これによって、お金と手間はかかるが、精神の安定と職場の信頼を担保している。 なにより、「わたしばっかり頑張っている」感がない。被害者意識に陥ることもない。この感覚は子育てをする上で、とても重要だと思う。 あるある②の「『今日は早く帰る』と言ったはずの夫が帰ってこない!」については、わが家でもよくあることで、こと育休中にいたっては、夫の帰宅を待ちわびては期待外れの日々だったので、夫に依存しているような自分がいやだった。けれども、夫なんてアテにしない、最初からいないものとする、という考えもまた、結婚した意味がなくなるようでいやだった。 2009年に初めて参加したサロンで、そんなパートナーシップにまつわるもやもやを言語化することの大切さに気づき、半年間のサロンサポーターを通じて、夫とどういう夫婦になりたいか?を見つめなおしたことが大きかったと思う。 もちろん、夫や職場に(おおむね)不満はないとする前提として、同僚や上司がワーキングマザーに理解があること。さらに夫が育児と家事の当事者意識を持っているということ。この二つが、対話の根本にある。 例えば、子どもが発熱のときも、「今日はわたしが仕事を休むから、明日はあなたがよろしくね」という50:50の関係が、夫とは当然のように成り立つ。 (逆に、twitterなどを見ていて、共働きでもこれが成り立たないという家庭が多いことに驚いたが・・・) 世の中には、「家のことをおろそかにしないなら妻が働きに出てもいい」という男性もいるようで、その(前時代的な)条件には驚きだが、「育児休暇?時短?この忙しいときに!」という無言の視線が痛い職場があることもまた事実だ。 確かにそんな夫や職場の雰囲気では、対話しようにも、相当のストレスがかかるだろう。この対話の素地の有無は、自分ではなかなか選べないので、その点は、わたしは恵まれていると思う。 【今後の課題】 その一方で、サミットでは、今の自分に欠けていることも見つかった。 特に仕事に関してだが、結局自分はどうしたいのか?本当にやりたいことは何か?ということである。 これは、はたらくうえで本質的な問題であり、就活の際にもさんざん考えたところではあるが、「いまは子育て中だから」と理由をつけて、問題を先送りにしがち、ブレーキをかけがちな状況だ。 しかし、「何がしたいのか?」から目を逸らさずに掘り下げないと、転職とかフリーとか現状維持とか、方向がブレまくる。身近にやりたいことはたくさんあるはずなのに、なんだかタスクみたいになっていて、「本当にやりたいこと」を見失っている。 わたしが生涯をかけて実現したいことって何だろう? 会社員とか、報酬とか、子育てとか、いろんな条件を横においておいて、わたしがやりたいことって何だろう? それはまだはっきりと見えないけれど、目を開いて、考えることを怠らないようにしようと思った。
一昨年前の東京国際映画祭で最優秀監督賞と観客賞を取り、原作の小説も評判になっている『サラの鍵』を観てきた。
『灼熱の魂』を観たときにも感じたが、このクオリティの作品が単館での上映だなんてもったいなさすぎる。が、そもそも日本で上映されるかどうかすら、おぼつかない状況だったらしいので、公開されただけでもよかったと言うべきか・・・。 ![]() 第二次大戦下のパリ。迫りくるドイツの影に、パリに住むユダヤ人にも、ナチスの手がかかる。 10歳のサラが両親と弟と住むアパルトマンにも、警察がやってくる。サラは弟・ミシェルを守るため、怖がる彼を「かくれんぼだと思って。私が来るまで決して出ないと約束して」と言って納戸に隠れさせ、外側から鍵をかけて、警察には「弟は留守だ」と嘘をつく。 家族を守るため、よかれと思ってついた嘘・・・。 これが大きなアダとなる。たった10歳の少女がひとりで背負い、墓場まで持っていく「鍵」になる。 サラはすぐに家に戻れると思っていたが、実際はそうではなく、サラと両親はこのままユダヤ人収容所へ連れて行かれる。 このユダヤ人一斉逮捕は、歴史上、「ヴェルディヴ事件」と言われるが、これがドイツ軍によるものではなく、フランス警察によるものだった、という事実は、数年前にシラク大統領が認めたところだ。本作を見るに、フランス国内でも若い世代にはあまり知られていない様子だけれど。 物語はサラの視点で進むのかと思いきや、時代は現在のパリに移り、このヴェルディヴ事件の取材をするジャーナリスト・ジュリアが主人公である。彼女はパリに住むアメリカ人で、取材時にサラの存在を知るのだが、それとほぼ同時に、45歳にして念願の妊娠が判明する。 しかし、喜んでもらえる思った夫には高齢の出産を反対され、人生の選択を迫られる中で、のめり込むようにサラの消息を追い、アメリカやイタリアまで飛ぶ。そして、ときには自分の家族を敵にし、サラの家族に疎まれながらも、真実を追求する。 ![]() ジュリアの取材に導かれるように、観客も、「納戸の弟はどうなったのか?」「サラは生還後どうなったのか?」と疑問は深まる。そういう意味では謎解きの要素はあるが、言ってしまえば赤の他人のジュリアが、なぜそこまでしてサラを追うのか、その理由がわたしは気になった。 サラの「鍵」を重荷の象徴と捉えるならば、ジュリアの胎児もまた重荷ということになる。ジュリアは、サラの人生を自分に重ね合わせ、出産かあるいは堕胎か、納得のいく選択をしたかったということだろうか。 いずれにせよ、戦時中のことともなると、ひとりひとりの歴史などは、大勢に比べれば塵芥のようだ。それを掘り返し、光を当てること。真実を後世に語り継ぐことでもらえるパワー。 本作がサラの視点で描かれず、妊婦のジャーナリストがサラの人生を紐解く、という多重的な構造にしたのは、ここに意味があるのだと思った。
先週、六本木アカデミーヒルズで開催された『ソーシャルメディア進化論』というセミナーを聴きに行ってきた。
パネリストは表題の本の著者・武田隆さんと、その本の帯に推薦文を寄せている夏野剛さん。アドリブ感満載の対談もあり、なかなかエキサイティングなセミナーだった。 第1部の武田さんパートは、ほとんどが、著書『ソーシャルメディア進化論』の内容を抜粋してのプレゼン。 著作では、インターネットの黎明期からソーシャル時代の現在までをとらえ、ソーシャルメディアを通じて、どうすれば企業と顧客が関係性が深まるか?どうすればそこに「心温まる関係」が根付き、さらにマネタイズするか?ということがテーマになっている。 これまで300の企業をコンサルした経験知と、緻密な数字を積み上げてのプレゼンは、まさに研究所のそれ。「レリバンシー(我が事化)」など、聞きなれない言葉もちらほら出てきたので、事前にある程度読んでいって正解だった。 第2部の夏野さんのパートでは、特に原稿などの用意もなく、夏野さんの頭の中にあることを話している感じで、武田氏とは対照的。 ソーシャルメディアというよりは、過去15年のIT史をさかのぼり、少し俯瞰した内容。 そしてやはり日本企業のリーダー批判色が強かった印象が。 以下はメモ。 ■1998年、JAL/ANAがインターネットによる航空券の発売を開始、電子証券取引の開始、楽天市場開始 ⇒フロント営業・販売方法の激変、ビジネスモデルの変化 ■同1998年、Googleがネット上での検索を開始 ⇒個人の情報収集能力の向上 ■現在は、Twitter/Facebook等、個人の情報発信が簡単にできる時代へ こうしてみると98年って、すごい変革の年だったのね。 この変化をふまえて、夏野さんのリーダー論がはじまる。 ◆この15年で消費者の行動パターン・ライフスタイルが劇的に変わり、ビジネスモデルも変わっているのに、企業の組織・体制は古いままなのが問題。 ◆生物学的に言っても、経営を同種の人間(例えば創業以来同じ釜の飯を食っているメンバーなど)で固めるよりも、社外や若手などを含めた、多様性のある組織がサバイブする。 ◆ターゲットユーザーとシンパシーのある人が決定権のあるリーダーに登用されるべき。 ◆ITは信長の鉄砲と同じ。どう戦略に取り入れるか?が重要。このことを企業のリーダー(60歳付近)の世代に理解してほしい。 最後に二人の対談と質疑。しかしこのパートは、武田さんが質問して夏野さんが答えるという形式だったようだけれど、質問があいまいだったので、対談というより一問一答みたいになっていたのが残念。 その中でも印象に残ったキーワードがいくつかあったので列挙してみる。 ■企業リサーチにおいて、ユーザーの深い発言を引き出すには、深い質問が必要。(武田) ■コミュニティに囲い込んだユーザーだけでなく、組織化しない声(Twitterなど)を拾っていく戦略も考えた方がいい。(夏野) ■ソーシャルメディアでは、「批判的なレスポンスがくるから気軽に発言できない」と思っているユーザーが多い。(武田) ⇒コミュニティが活性するには、ニコ動など、ユーザーが「気軽に発言できる」雰囲気であることが重要。(夏野) 全体的に、夏野さんのプレゼンは大胆で例えが面白く、また質問に対しての切り返しが早いので、話に引き込まれる。なんだか炎のような印象。 対して、武田さんは、しっかりと根拠を張り巡らせて話す、浮ついた感じがしない、大地のような印象。 ちなみに、過去のアカデミーヒルズのラインナップを見ると、興味深いセミナーが多く、ぜひ今後もチェックしていきたいと思った。学びたい欲求というのは、いくつになっても尽きないもの…。 ****************************************** 「情報革命の行き着く先が、よもやこのような人間臭い世界になると誰が予想しただろうか?情報テクノロジーの最先端が、人と人の、心と心の関係に向かっていることにおもしろみを感じはしないか?」 (武田隆『ソーシャルメディア進化論』抜粋)
またしても夫のチョイスとなるDVD『127時間』を観た。
公開時、わたしは全然知らない映画だったけれど、夫いわく、ネットで話題になっていたらしく、また『スラムドッグ$ミリオネア』の監督ということで期待は高まる。 本作は、登山中に狭い岩場で、落下してきた岩に右手を挟まれて身動きがとれなくなり、遭難してしまった登山家・アーロンの話。その挟まれていた時間、127時間を描いた実話である。 遭難するまで、主人公アーロンがどんな男なのかの説明はほとんどないのだけれど、アマチュアの週末冒険家で、家族にも行き先を告げずに出かけるのが常のよう。 そして、遭難中の127時間、特に後半は妄想と回想で占められ、ここではじめてアーロンの過去が浮き彫りになる。死と向き合う中で、子ども時代の幸せな記憶、親への感謝、恋人との別れ、後悔など、走馬灯のように過去の映像が走る。 面白いのが画面の構成で、主人公の感情が高ぶるシーンでは、画面が三分割されている。これによって、まるで過去・現在・未来を見ているように、時間を超えての表現が可能だ。 観客は洋楽のPVにありそうなドラッグ的疾走感を、アーロンはパニック状態でハイになっていく様子を、シンクロさせるような描写になっている。 ラストの見せ場、岩場を脱出するために彼が取った方法とは? まあ方法はひとつしかないから最初から想像はつくのだけど、使える道具がないから、かなり肉体的な無理が必要で…。このシーンは本当にグロくて、『SAW』では平気だったわたしも目をそむけてしまった。 けれども、127時間も耐えずに、最初からその方法を取ればよかったのに、と観ている側が思うのは浅はかだ。 その行為は、もう一滴も水がない、尿も出ない、助けにくる見込みもないという極限の状況になって、一種、正気を失っていないとできないことなのだから。 見ている方も正気ではいられないラストだが、アーロンが予知夢で見た、その後に訪れるだろう平穏な家庭が、救いでもある。
自分ではきっと借りてこないタイプのDVD『世界侵略:ロサンゼルス決戦』を夫が借りてきて、つくづくSFに関しては趣味が一致しないなあと思いながらも、食わず嫌いはいかんとの思いで鑑賞。
本作は、謎の地球外生命体が世界各地の都市を侵略しようと攻撃してくるのを、ロサンゼルスの海兵隊が阻止しようとするという、なんともアルマゲドン風なストーリー。 ここぞというシーンでは、エアロスミスが空耳で聞こえてくるぐらい。 この海兵隊のある部隊に、やたらダイ・ハードな主人公がおり、敵陣に乗り込み、民間人を避難させるという、インポッシブルなミッションを完遂する。 もちろん、主人公が過去に部下を死なせて罪悪感をかかえている、というトラウマはお約束の設定。 地上も制空権も侵略者に奪われ、絶望的な状況の中、不屈の精神で戦う海兵隊。 しかし苦境を脱するには、チームプレーを逸脱してでも、突出したスタンドプレーヤーが必要なのだと実感。 さらに戦場では、状況に応じて即座に決断することが問われる。その決断がいいか悪いかは問題ではない。とにかくリーダーは「決めること」が重要で、実際の戦闘では、決めないことは部下の無駄死にを招く。これは、戦時のリーダーなら自明の理だろう。そして、リーダーはスタンドプレーヤーになってはならない。 と、いつかどこかで見聞きしたような作品なので、特段の驚きはなかったのだけれど、侵略者の基幹である中央システムの形状が、ラピュタらしき姿だったことだけ、記憶に残ったのだった。
予告編で気になっていた『灼熱の魂』という映画を観たら、これが観ている方の魂まで焼くほどの、すばらしくドラマチックなフィクションで、久しぶりに放心状態になってしまった。
本作は、遺言状から紐解くミステリー、というにはあまりに過酷で無慈悲な環境をくぐり抜けた、ある母親の半生の物語である。 それは、同じ女性として目を覆いたくなるほど苛烈で、私にとってはどこか遠い国のできごとなのだけれども、それでも、子どもを産んだあの瞬間に感じる気持ちへの共感と、「子を産む性」の持つどうしようもないむごさに魂を揺さぶられた。 ![]() レディオヘッドのあやうい曲と、中東の、どこか不穏な空気のただよう部屋に集められた少年の射抜くような視線、さらには意味ありげなかかとのタトゥーというオープニングに始まり、場面は変わって現代のカナダへ。 プールサイドで母親が倒れ、公証人の立会いの下、遺言を受ける双子の姉弟・ジャンヌとシモン。 姉へ「父をさがして、この手紙を渡して」 弟へ「兄をさがして、この手紙を渡して」 それぞれの遺言を果たすため、姉弟は、死んだと言われていた父と、存在すら知らされていなかった兄を捜すことになり、それは奇しくも母のふるさとをたどることになる。 そして物語は、現代の双子の視点と、母親であるナワル・マルワンの若き日の視点がオーバーラップしながら、交互に描き出される。話の節目ごとに入る、小説でいうところの章にあたるようなタイトルが、気が利いていて、原作が戯曲だと聞いて納得。 若き日の母親、ナワルは、宗教的に対立する相手との子を妊娠し、出産することは許されるも、産んだ直後に息子とは引き離される。いつか息子を迎えに行くと決意しながらも、内戦に翻弄され、死と隣り合わせの日々。 そしてナワルは、一つの事件を契機にある政治家を暗殺するのだが、政治犯として断罪されるとわかっていながら、なぜ自死を選ばなかったのか。また獄中での15年間、人間としての尊厳を踏みにじられるような拷問を受けながらも、彼女の精神を支えたものはなんだったのか。 引き離された息子に会うため?それとも? ![]() 双子が紐解いていく母の歴史は重く、真実は過酷だ。 自分たちは刑務所で拷問の結果生まれた子であり、さらに、父と兄の2人を探すはずが、実は1人だった、と理解したときの双子の表情。オイディプスのごとく冷酷な結末は、弟シモンが「知りたくない!」と反発する気持ちをあざけるかのようだ。 そして、ショックを受けた双子がプールに飛び込んで癒しを求めるシーンは、まるで母の胎内の描写で、特に、双子たちが抱き合うシーンはひとつの卵のよう。ここでも2人は1つ、を暗示している。 しかし直観ながら思う。彼らは、強く生きるだろう、母のように、強く。 ラスト、しかるべき父と兄に渡った遺言の手紙は、これ以上ないほどのメッセージを果たす。 この手紙は復讐ではなく愛だと思いたい。復讐を断ち切るための愛だと。 ******************************* 2通の手紙、抜粋。 父親へ あなたは知らないが、あの子たちはあなたが父親であることを知っている。 美しいわたしのこどもたち。 私はすぐに気づいたのに、あなたは気づかなかった。 あなたの娼婦 息子へ これは拷問人への手紙ではない。息子への手紙だ。 あなたが生まれたときに決めたのだ。なにがあってもあなたを愛すると。 あなたの母 *******************************
わたしの通っているネイルサロンでは、施術の間、好きなDVDが観られるサービスがある。 年末に行った『ヴェネツィア展』以来、ヴェネツィア熱が高まっていたので、今回は、ジョニー&アンジーの共演で話題をさらった『ツーリスト』をチョイス。
結論から言うと、もうこの映画、ストーリーは二の次。ひたすらアンジーの美しさをジョニーになった気分で追いかけ、ヴェネツィアの美観を愛でる作品だった。 冒頭から、アンジーの露出度は低いんだけれども妙になまめかしい姿にくぎづけ。全体的に今回のアンジーは、ファッションもアクション控えめで、淑女ふう。パリのカフェで朝食を取るシーンなんて、わたしの憧れるマダムそのもの。 化粧が濃いのが少し気になるけれど、ジョニーとの会話はなかなかウィットに富んでいて小気味よく、男を試すような煙に巻くような感じが、ヨーロッパ特有の、魔性の女の香りがする。 対するジョニーも、おどけた表情でうまくユーモアを出している。 ふたりの宿泊先は老舗のダニエリ。生涯に一度は泊まってみたいホテルだけど、ホテルマンは慇懃無礼な感じで描かれていた。このシーン以外にも、随所でアメリカ人は軽蔑の眼差しを向けられていたのが、皮肉っぽくて面白い。 本作の時代設定がいつなのかわからないが、スパイ・ミステリにしては、派手なアクションもないし、盗聴器や携帯電話ですら、クラシックな雰囲気を壊さないようにとの配慮からか、最低限のシーンでしか出てこない。キーパーソンとなる男、アレクサンダー・ピアースとの連絡手段はいまどき古風な手紙だし、とりわけアンジーとジョニーのふたりきりのシーンでは、まったく21世紀の現代感がない。まるで60~70年代の物語を装っているという感じ。 そのクラシックなムードには、やっぱりクラシックさが似合う街が必要で、ヴェネツィアは、『旅情』がまさにそうだけれども、本当に旅と男と女が似合う街。移動手段が船しかないところも、古風であり、非日常感が増す。 かつて、『007/カジノ・ロワイヤル』でもヴェネツィアが舞台になっていたけれど、ドンパチやらない本作の雰囲気の方が、わたしは断然好きだ。 都合がよすぎる展開とか、マフィアのボスが弱すぎるとか、いろいろ突っ込みどころはありつつも、主演ふたりとヴェネツィアに乾杯!という作品であった。
今年の映画初めは、1日に封切られた『善き人』にする予定だったのに、連休中の発熱により、図らずも夫が借りてきたDVD『X-MEN ファーストジェネレーション』が今年の1作目となってしまった。
『善き人』はナチ政権下の話だが、思いがけず、こちらもホロコーストのシーンから始まったので、偶然の一致に驚きつつ、ベッドで鑑賞。 本作は最近流行している、「シリーズのプロローグもの」なので、シリーズ本編を観ていることが前提なのだけど、なにげにわたしは、『X-MEN』シリーズはスピンオフ作品の『ウルヴァリン』を除いて全部観ているので、だいたいのキャラクターは把握している。 これまでのシリーズを観てきて、これは極端な話、持って生まれた異質性(コンプレックスという言葉ではなまぬるい)を隠して生きる?それとも活かして生きる?を問うている映画だと思う。 作中での異質性とは、特殊能力をもつミュータントのことだが、それは何の比喩かというと、現実社会におけるセクシャルマイノリティを指している(とファンの間では言われている)。つまり、本シリーズは、 ゲイであること(ありのままの自分)を隠して社会に順応しますか? それともカミングアウトして世論を受けて立ちますか? という現実社会のストーリーと読み換えることができる。 ミュータント・・・なんという隠れみの! そして本作は、「ファーストジェネレーション」という副題どおり、若かりしころのプロフェッサーXとマグニートーが出会ってから、袂を分かつまでのお話。 ナチ政権や冷戦などの世界情勢とうまくリンクさせながら、最初は仲間として過ごし、共通の敵であるセバスチャン・ショウと戦い、さてミュータントたちの今後は?となったときに、異なる結論を出したふたりは、別の道に歩むことを決める。 このときのマグニートーの揺れ動く心象描写は圧巻。ミサイルが千々に乱れ飛ぶ。 しかし本作で明らかになるマグニートーの生い立ちが、あんなに悲惨なものだったなんて、後付けの過去にせよ、同情を禁じえない。本作を観てからシリーズをみかえすと、マグニートーの方に肩入れしてしまうこと間違いない。 さらに、ミスティークとビーストのエピソードが象徴するように、ミュータントにも2種類あるのが、ミュータント内での対立の溝を深めている。 ひとつは、外見上は人間と変わらず、特殊能力を隠せるタイプ。 もうひとつは、外見からして異形のものであり、明らかにミュータントだとわかるタイプ。 後者の方が、より生きづらく、劣等感、ともすれば同胞に敵対心すら抱くのは当然と言えるだろう。 保守にせよ過激にせよ、どちらにしても、マイノリティには生きづらい世の中。 わたしがミュータントだったら、どちら側につくだろうか?傷ついても、ありのままの自分を出せるだろうか?と思いながらの2時間だった。 ****************************************** 「発話されることがなければ、ほかの人々はその問題を無視するどころか存在に気づくこともない。人種の問題にしろ同性愛の問題にしろ、かねてより私的なものとされ公的なみんなの空間から排除されてきた数々のテーマは、自らの発話の積み重ねによって注目を勝ちとってきた。 私たちの社会には、まだまだ無数に私的なもの、あるいはタブーとされる問題がそれぞれの孤独の裏に隠されている。ハンナ・アーレントはこのことを『マイノリティ以前の孤独』と呼んで警鐘を鳴らす。」 (武田隆『ソーシャルメディア進化論』抜粋) < 前のページ次のページ >
|
カテゴリ
以前の記事
愛すべきひとびと
◆作家・演出家・監督 シェイクスピア ジャン・コクトー ルキノ・ヴィスコンティ オスカー・ワイルド 三島由紀夫 澁澤龍彦 蜷川幸雄 塩野七生 須賀敦子 藤本ひとみ ◆アクター ジョニー・デップ ショーン・ペン ジャック・ニコルソン アラン・ドロン ヘルムート・バーガー 浅野忠信 渡部篤朗 佐藤浩市 三上博史 ◆アクトレス アンジェリーナ・ジョリー マレーネ・ディートリッヒ シャーロット・ランプリング クラウディア・カルディナーレ カトリーヌ・ドヌーヴ 中谷美紀 ◆歌手/音楽家 サラ・ブライトマン X JAPAN ◆画家/彫刻家/写真家 ギュスターヴ・モロー グスタフ・クリムト W・ウォーターハウス カミーユ・クローデル ウージェーヌ・アジェ ロベール・ドアノー 藤田嗣治 篠山紀信 ブログパーツ
最新のコメント
最新のトラックバック
ファン
|