キャラメルボックスの『トリツカレ男』という舞台を観に、赤坂Actシアターへ行ってきた。
いつもキャラメルは池袋のサンシャイン劇場なので、赤坂とはちょっと新鮮。 本作は、興味を持ったものにすぐにトリツカレてしまう男・ジュゼッペの、恋の物語。 「恋は盲目」というけれど、ジュゼッペにかかれば恋以外でも、たとえばオペラや三段跳び、昆虫採集、探偵、外国語など、興味をもったものにはなんでもトリツカレてしまい、のめりこんでしまう。 まるでリミッターが外れたような好きになり方で、慎重派のわたしにとっては、ある意味うらやましくもあるのだけれど。 そんな「トリツカレ男」の異名をとるジュゼッペが恋した相手は、ロシアからきた少女・ペチカ。ペチカの抱える悩みを解消するために、陰でこっそりと力を尽くすのだが、その尽くし方がなんともまあ不憫というか、じれったいというか、イライラするというか…。 なぜ夜中にこっそり仕事をする小人のように、善行を内緒にするの!もっとペチカに積極的にアピールしなきゃ! と、ジュゼッペのペット(?)のネズミ君とまったく同じ気持ちをいだいてしまった。 そんなわけで、ジュゼッペの純粋さと不器用さにはなかなか感情移入できなかったのだけれど、脇を固めるメンバーのコメディ的な要素は、毎度のごとく、いい味を出していた。ファンキーな悪徳不動産屋とか、ジュゼッペを憂える女性新聞記者とか。 また、狂言回し的なネズミ役を演じていた金子貴俊が、ユーモラスで、かわいらしくて、ハマり役だったと思う。 これまでわたしが観てきたキャラメルボックスは、笑えて泣ける作品が多く、舞台初心者でも楽しませてくれる、「That's エンタテインメント」な劇団だと思う。昨年観た『ナツヤスミ語辞典』と『水平線の歩き方/ヒア・カムズ・ザ・サン』は両方とも大泣きだったから、今回も覚悟していたのだけれども、本作は意外なことに泣けなかった。 思うに、本作は「家族」というキーワードが少なかったからかなと。 よくよく考えてみれば、わたしが舞台や映画で泣けるポイントは「家族の喪失と再生」のようで。きっとキャラメルボックスは、そのテーマをいつも上手に昇華してくれるから泣けるんだな。 と、今回は泣けなかったけれども、そのぶん、深い気づきをもらえた舞台だった。
赤坂ACTシアターで再演された、宮元亜門演出の『金閣寺』を夫と一緒に観に行った。
三島由紀夫の代表作で、そもそも戯曲ではない本作を、どうやって舞台に転化するのか?主人公にとって、完璧な美の権化である「金閣寺」をどうやって表現するのか? 湧き出る問いかけへの期待と、とんでもなく前衛的で退屈だったらどうしようという懸念を抱きつつ、劇場へ。 ![]() 主役の溝口を演じるのはV6の森田剛。普段、役者というよりは、V6としてしか知らない森田君だけど、初演の際に評判を聞いていたので、安心して観ることができた。 吃音ゆえにまわりとうまくコミュニケーションをとれない孤独な青年・溝口が、金閣寺放火に至るまでの内面的変遷を、原作よりもわかりやすい形で演じていたと思う。 個人的には、内翻足というハンディキャップを持ちながら、それすら武器にして世を渡るという、屈折した自意識の塊である柏木が、一番の役どころではないかと期待していた。一般的には、三島は溝口を通して自身を代弁していると言われているが、わたしはむしろ、このシニカルな哲学者で、不敵で、挑戦的な青年・柏木が、どうにも三島自身と重なって見えたものだ。 本公演では柏木役を高岡蒼佑が演じていて、煩悶する溝口を脇に、柏木が出てくるとぴしゃりと場が締まりはするのだが、本来の柏木の奥からにじみ出る、尊大な劣等感とでもいうような屈折までは感じとることができず、少しばかり物足りなさを覚えた。 2階席だったので、役者陣の表情があまり見えなかったせいもあると思うが。 最後に、金閣寺(鳳凰)を人間が演じるというのは衝撃的だったけれども、普通なら、美の象徴というものは女性で表現しそうなところだが、擬人化された金閣寺が肉体美を誇る男性だったことは、ミシマイズムの継承というか、皮肉というか。 溝口が童貞を捨てようとする最中に、ことごとく邪魔するのが男性化した金閣寺なのだから、男色の想像も膨らむともいうもの。 なかなか示唆に富む舞台であった。 ********************************** 舞台上でも三島の美文に酔うわ酔うわ。 「孤独はどんどん肥った、まるで豚のように」 「美というものは、こんなに美しくないものだろうか」
夫と一緒に、劇団四季のミュージカル『オペラ座の怪人』を観にいってきた。
![]() 学生の頃からこのミュージカルが大好きで、ロンドンも含めてもう何度観に行ったかわからないけれど、どのナンバーもハズレがなく、いつもファントムに感情移入して泣いてしまう。 ちなみに夫はミュージカルは眠くなるタイプだが、妻が誘えば文句も言わず付き合ってくれるタイプでもある。いいのかわるいのか・・・。 ★過去レビュー(2005年「怪人熱の果て」)(2007年「最高のご褒美」) 今回は2階席の最前列が取れたのだけど、シャンデリアや屋上のシーンなど高い位置の演出があるし、私的にはこの位置が一番観やすいのではないかと思う。 とりわけ、ファントムの「The Music of The Night」と「The Point of No Return」はいつ聴いても泣ける。それは過去のレビューを振り返ってみても、不思議と同じで、何年経っても何度聴いても変わらない。 かなわぬ恋のせつない気持ちと、美しいものに対する憧れと妬みを、あふれる才能で歌い上げるファントム。その歌の才能は、クリスティーヌを畏怖させながらも魅了し、地位も財産も美貌も持つ、完璧な婚約者・ラウルを歯ぎしりさせる。 才能に惚れるのは表現者なら当然のことで、クリスティーヌがファントムを恐れながらも惹かれるきもち、わからなくはない。しかしそのあいまいな態度が、ファントムを期待と絶望にいざなう。 なんて無慈悲なクリスティーヌ。なんて哀れなファントム。涙なくしては観れないわ。 さて、子どもがいると、なかなか好きなときに劇場に行けないので、いつでも自宅で観れるように!ということで、昨年ロンドンのロイヤルアルバートホールで開催された25周年記念公演のDVDを購入。 しかも初回限定版の、CDが2枚ついてくるバージョン。わが家には、CDプレイヤーがないのに・・・。 ちなみに、劇団四季は劇場ごとに託児があり、息子が生まれてから2~3回ほど利用している。いつも2~3人は子どもがいるので、子ども同士仲良く遊んでいるし、保育士さんとほぼマンツーマン体制で安心だ。 浜松町の自由劇場は古い和室だったけれど、今回は海劇場だったので、ロイヤルパーク汐留タワーのホテルの一室だった。部屋は35階くらいで、乗り物大好きな息子は、ゆりかもめが見えて大興奮。 あと、四季には親子観劇室というサービスもあるので、安い席を買って膝上で鑑賞し、ぐずったら親子観劇室に退避するというプランもありかと。 わが家はまだ劇場デビューしていないけれども、ミュージカル好きの同僚いわく、3歳ぐらいになると、子どもの性格によっては2時間大人しく鑑賞できるらしい。今年中に親子でミュージカルデビューすることを目標に、DVDで予習に勤しもうかな。でも、『オペラ座の怪人』は怖がりそうだから、最初はやっぱり『ライオンキング』か『キャッツ』あたりからになりそうな予感。
友人と観にいった『身毒丸』という、藤原竜也のデビュー作品の復活公演。
数年前、ファイナル公演という名で終わってしまい、ついぞ観ることができなかった…と思っていたら、今年のワシントン公演を期に日本でも再演するというので、あわててチケットを取った。 蜷川演出にしては短い、90分ほどの上演時間のなかに凝縮された、ある一家の歪んだ情念。 継母に対する愛と憎しみの間で身悶える主人公・しんとく丸に藤原竜也。 「家があって、お父さんがいて、お母さんがいて、子どもがいる」という家庭のスタイルに執拗にこだわる父親に品川徹。 そして、「買われてきた」継母役の白石加代子は、完全に撫子という鬼女が憑依していた。 3人とも、まるでそれぞれの一人舞台であるかのような、圧倒的な個性であるのに、家族合わせのシーンなど呼吸を合わせるシーンでは、みごとに「家族を演じて」いる。 役者のほかに、もうひとつの見どころとしてわたしが気になったのは、冒頭の異形のものたちの行進にもあるように、芝居全体を包み込む、なにか歪んだ時空間だ。 時代背景は、「かつて確かにあった『東京』という町」と設定されている。 かつて、というのが具体的にいつの時代を指すのか、あるいは本作はそもそも時代など超越した時空間と捉えるべきなのかもしれないが、少なくとも寺山修二が生きて描いた昭和という時代には、まだ、魔、とでもいうのだろうか、それとも魑魅魍魎とでもいうのだろうか、理屈では説明できないような異形のものが跋扈していたように思う。 いったいこの芝居はなんだったのか…テーマもストーリーも、まるでこの魍魎のように曖昧模糊としていて、セリフすら耳で聞いただけでは何を言っているのか理解できず、パンフレットの文字で読んではじめて、腑に落ちるというありさま。 ただ、3人の主役、とりわけ白石加代子のたましいの演技に眼を奪われて、撫子に引きずられるうちに、あっという間に時間がたってしまった、というのがほんとうだ。 さいたまの劇場は、久しぶりに見る満場のスタンディング・オベーションだった。
作家の分類で、もしも、破滅型の文豪、というカテゴリーがあれば、確実にその第一人者であろう太宰治の生涯、とりわけ彼の友人関係からの視点で描いた『人間合格』というお芝居を、こまつ座が再演するというので観にいってきた。
卒論のテーマが太宰だったという知人を誘おうかとも思ったが、専門家と一緒に行くと芝居がハズレだったときに厄介なので、太宰はそこそこたしなみます、というくらいの友人を誘って会場のサザンシアターへ。 井上ひさしの原作は未読だったけれど、『人間失格』を引いての「六葉の写真」の紹介から始まる冒頭に、気分は一気に高揚。 井上作品の特徴であるコミカルなセリフは、テンポといいリズムといい抜群で、ほかにも、『走れメロス』『晩年』などの一端が随所に織り込まれており、太宰作品のおいしいところ詰め合わせ、といった印象を受けた。 席があまりよくなかったので、役者の表情を如実に見て取れなかったが、遠目にも、太宰を演じた岡本健一は腺病質っぷりが板についていたし、そのどこか自嘲げな物言いは、わたしのイメージする太宰と一致していた。 麻薬中毒から更生中のシーンなんて、太宰の写真そっくりで、微苦笑するしかなかったくらい。 また、太宰のお目付け役だった、津軽の実家の番頭・中北さんの登場で、場面が締まってくる。 演っていたのは辻萬長というこまつ座の役者さんで、わたしは初めてだったのだが、劇中歌も津軽弁も見事にこなし、一貫して太宰たちを「更生」させる立場をとる。 戦前~戦中~戦後と、時代におもねり次々と思想を変える中北さんと、一貫して社会主義を貫く太宰の友人・佐藤との対比が面白い。 「人間みな同じ、万人平等といえるのは、たとえば、佐藤、こいつみたいに、心の底からそう信じて、そのためだけに命をはって、がんばってきたやつだけじゃないか」 太宰のこのセリフには、自身も含め、時代や体制に迎合してしまう人間の情けなさ、それも恥じ入りながらこっそりと迎合するのではなく、大手を振って勝ち馬に乗ってしまう人間の方が多いという事実、しかしそうしてしまう弱さもまた人間なんだ、という自嘲のすべてが詰まっているような気がした。 この出来だったら専門家と観ても全然問題なかったと思うくらい、本作を軽んじてしまった自分が恥ずかしかった。
縁あって、現在来日中のマリインスキーオペラ『イーゴリ公』のチケットをいただいた。
久しぶりの正統派オペラ!それもわりと良席だったので、かなり浮かれた気分で会場のNHKホールへ。 NHKホールは殺伐とした内装であまり好きではないけれど、それでも女性として、オペラは華やかに装おって行けることが、楽しみのひとつだったりする。あとは、幕間のシャンパン。そして、連れは知的なムードを漂わせた異性に越したことはないのだが、わたしの知っている唯一のオペラ通の男性は来られないということで、結局、気取るのはやめにして女友達と鑑賞。 ロシアオペラは初めてで、本作もどんなストーリーだかまったく知らず、予習としてはあらすじをナナメ読みしただけ、CMなどで有名な曲「だったん人の踊り」だけはわかるかも…という程度の素人観劇だったのだが、もう、一幕目の合唱から、圧巻のひとこと。 舞台が狭く見えるほどのエキストラは、総勢で40名はいただろうか。彼らの、イーゴリ公を讃える合唱は大迫力で、さらには出征シーンに本物の馬まで出てきちゃうから、ますます臨場感があふれる。 よく考えれば、これまで観たオペラには宮廷ものがなかったので、大勢での合唱シーンというのは、初体験なのだった。アリアもいいのだけど、劇場で聴くには、やっぱりこういう迫力のコーラスが、オペラの醍醐味だなあと。 一幕のラストを飾るのが、「だったん人の踊り」 すばらしく立体感のあるダイナミックな動きなのに、ディティールは繊細。捕虜として連れてこられた女たちが故郷を偲んで歌う透明な声が、心に染み入る。そこに被せるように、遊牧民族らしさあふれる猛々しい銅鑼の音。 歌に演奏にバレエに演技、これこそまさに、綜合藝術の極みである。 二幕目はさほど盛り上がりには欠けるものの、イーゴリ公が遠征から帰るのを待つ公妃のアリアに、遠くから、「敵国のハーンが攻めてくる」という憂いたっぷりの声がかぶさるシーンが、寂寥感を出していて胸を打つ。 ところが…幕間に飲んだシャンパンがほどよく消化され、さあここからいよいよかと思ったところで、敵方のハーンの幕舎を脱走したイーゴリ公がロシアに帰還したところで、ジ・エンド。 急転直下のラストに、え、ここで終わりなの?という唐突感は否めない。 イーゴリ公とハーン、二人の対決のゆくえは?幕舎に残してきたイーゴリ公の息子と、ハーンの娘の恋愛は?イーゴリ公の留守の間に宮廷のっとりを画策していた義兄のたくらみは? ハテナマークがいくつも残ったまま、ストーリーは腑に落ちないけれども、パフォーマンスはすばらしかったというカーテンコールを贈りながら、会場をあとに。 こんな不可解な終わり方なら、いっそ一幕仕立てで、「だったん人の踊り」をクライマックスに持ってくるのがベストでは?と、友人と話しながら帰路につく。 あとから知ったことだが、この歌劇、そもそも未完の作品とのこと。 しかし、ミケランジェロの「ロンダーニのピエタ」やモーツァルトの「レクイエム」など、未完の芸術は好きなわたしだが、やっぱりこのラストだけは、受け入れがたいものがあるなあ…。
シルク・ドゥ・ソレイユ好きの友人を誘って、『ドラリオン』を観にいってきた。
昨年の2月から足掛け一年…フジテレビの強力な物量宣伝に助けられつつ、全国をまわり、東京凱旋公演というわけである。(それで終わりかと思いきや、まだ福岡公演があるらしい) しかし、凱旋公演ということば、たぶん造語だと思うけど、なんだか雄々しい響きで好ましい。いわゆる「どさ回り」が本分のサーカスにはふさわしい賛辞よねん。 私は前作の『キダム』も『アレグリア』も観ておらず、初めてのシルク体験。 TVスポットではやたらと「感動!すごい!」と連呼しているので、なにがどれだけすごいのかとっくと観てやろうじゃないの、という(いじわるばあさんのような)気持ちで臨んだ。 全体的に洗練されたショーだけれど、ともかく心に残るのは、超人的な子どもたちのがんばり。 軟体動物並みの身体の柔らかさで、なにもそこまでしなくても、と言いたくなるほどの恰好をキープする少女。落ちるんじゃないかとヒヤヒヤする空中ブランコ少女。次は何が?と期待させてくれる縄跳び少年。 澄ました顔の裏には、たくさんの努力があるのだろう…だが、もしかしたら、意外とパフォーマーとしての寿命は短いのかもしれない。自分の全身の体重を、長時間、片手で支えられる限界というのは、十代半ばぐらいまでではないか。 また、面白いのが、輪くぐりなどで一度失敗しても、再度チャレンジできる演出――音楽も生演奏なのでやりなおしがきく――になっているのだが、失敗したパフォーマーには、不思議と観客も肩入れしてしまい、いつも以上に身を乗り出して厚い応援と喝采をおくってしまう。 これって、人間の本能的な心理であって、そこを読みこんでいるシルクはやっぱり計算高いなあと…。 もう一つの計算は、飽きないようにプログラムが組まれていること。ショーの合間合間に、クラウンの行なう客いじりが、緊張した会場の気を緩ませ、一体感を高める。 このあたりの客いじりは『ブルーマン』にも通じるのだが、シルクの方は最後に「身内ですよ」とネタばらしをするところが、さすが親子向けのイベントというか、大人のいやらしさがなく、良心的で気に入った。 今年10月にはシルク・ドゥ・ソレイユ専用劇場がオープンするらしい。 フジテレビ流の物量宣伝はほどほどにして、洗練されたニクイ演出で、楽しませてほしい。
シェイクスピア作品の中でわたしが最も愛する悲劇、『リア王』が、蜷川幸雄と平幹二朗のコンビで上演中である。
「老い」「世代交代」がテーマの一つであるこの作品を、それと似た状況にある自分の家族を鑑みると、いまのタイミングで観ることには少し抵抗があったけれど、平幹リアが観られるのはこれで最後かもしれないという想いで、さいたままで足を運んだ。 やはり蜷川作品は、冒頭の演出に驚かされる。 ふすまのような、左右に開く幕が開くと、バックに松、左右には梅。まるで能か狂言の舞台装置である。そして、そこには重々しい毛皮をまとった王家の一族が勢ぞろいしている。 そのオールキャストの威圧感、軽んじられない空気感に、わたしの気持ちは一気に古代ブリテンの王宮へ行ってしまった。 一幕目は、リアの傲慢さとエドガーの人の良さに辟易するも、二幕目からが見ものである。 リアが荒野をさまようシーンの平幹二朗の狂気の演技。それも単なるきちがい役ではない。グロスター伯の言うところの「狂気の中にも、まだ正気がおありになる」状態を演じるのだから、その演技力たるや! ジャンルは違えど、『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンの怪演を髣髴させる。 そんな狂気に捕らわれたリア王は異形であるのに、しかし平さんが演ると、これまた蜷川作品では常連の吉田鋼太郎とは違って、どこか高貴さが残る。 直近では『オセロー』のように、吉田さんもまた運命に翻弄され、狂おしいほどの絶望を体現する役が多いが、彼はどちらかというと豪胆な武将タイプ。気高いというのとは、ちょっとちがう。 さらによかったのが、一幕ではへなちょこだった忠臣グロスター伯の嫡男・エドガーの成長っぷり。 エドガーが失明した父伯爵の手を引いてゆく姿は、まさに世代交代の過程を描いているようで、リアの失敗した世代交代と比較する上で、とても興味深い。 親が老いる姿というものは、できれば目をそむけていたい。ましてや、親が傷つき、狂い、絶望する姿など見たくもない。 しかし、その姿をエドガーは眼を開けてしっかり見る。まるで、これまで嫡男として苦労知らずで生きてきてごめんなさいとでも言うように。 傷ついた父伯爵をおもんぱかり、自分の正体がばれないようにきちがいのふりをして、ゆっくり手を引き、父親の死出の旅路を誘導する。 このバックで流れる尺八のもの悲しさ。もはや能の情念の世界である。 グロスター伯が苦笑混じりに言う。 「きちがいがめくらの手を引く。世も末だ」 …そんなことはないのです。きちがいは、ふりをしているだけで、手を引いているのはあなたの息子なんですよ。何度そう言いたくなったことか。 これまで何度か原作を読んだ際に、エドガーという人物にはまったく興味を示さなかったわたしが、今回、こんなにも彼に共感してしまったのは、役を演じた高橋洋が魅力的だったからにせよ、涙をこらえながら老父の手を引くエドガーに、自分の姿を重ねてしまったせいかもしれない。 ラスト、すべての主要人物が死に至り、王国は崩壊寸前の重荷となる。そして、その重荷を、次代の王国を担うのは、それが自分の義務であると引き受けたエドガーなのである。 ****************************** 「リア王」は面白いほど格言めいたセリフが多い。 ひとりにワンセンテンスは、身につまされる言葉が与えられている。 「知恵がつかないうちに年取っちゃいけないんだよ」(道化) 「我が儘な人間につける薬は、自らが招いた苦しみしかないんですよ」(リーガン) 「暗いところで俺を生んだ不義の報いに、めくらとなって死んでいく。人生はよくできている」(エドマント) 「人間、生れ落ちると泣くのはな、この阿呆の桧舞台に引き出されたのが悲しいからだ」(リア)
会社の同期と一緒に、銀河劇場へ『ヴェニスの商人』を観にいった。
会場に着くと、マスクをつけた道化たちが場内をうろうろしていて、はじめは突飛だなぁと思いながらも、ヴェネツィアのカーニヴァルを思い起こさせるその雰囲気に、気分は高揚。 気になるシャイロックには市村正親。 05年に上映された映画版ではアル・パチーノがそうだったが、どうやらこの役は、役者ならば一度は演ってみたいと思うような、悲劇の悪役なのだと思う。 市村シャイロックには、オセローの吉田鋼太郎・リア王の平幹二朗と並ぶような重厚さはなかったけれど、そもそもシャイロックは王でも将軍でもなく一市民なので、重厚さなど必要ないのだろう。 その代わり、いち金貸しの(言いかえればユダヤ人といういち被差別者の)、いやらしさ、醜さ、汚さ、矮小さがきちんと出ていた。 藤原竜也はバッサーニオを筆頭に三役を演じる遊びっぷりだったが、発声はどの役者よりも(おそらく市村より)群を抜いていて、シャイロック色が強すぎると悲劇になってしまうこのストーリーを、うまく喜劇に差し戻していたように思う。 一方、舞台でははじめて観る寺島しのぶは、ここぞというところでセリフを噛んでいて、残念ながら期待していたほどではなかった。そして、彼女なら年齢を超越してくれるかと思ったけれど、やはりポーシャ役というのにも無理があるような…。 演出はロイヤル・シェイクスピア・カンパニー(RSC)のグレゴリー・ドーランで、照明も音響も美術も必要最低限という、とてもシンプルなものだった。 わたしとしてはこの冗長な3時間にたいくつさを感じてしまったけれど、これが本来のセリフによるシェイクスピアだ、最近の日本の芝居は演出過多のものが多すぎる、という戒めを突きつけられたような気がして、「ニナガワニナガワ」と言っている自分を省みてしまった。 今後の蜷川ラインナップでは、11月には『オセロー』が、そして年明け早々には待望の『リア王』が控えている。 おそらく過激で毒気ある、過剰な演出になると予想されるけれど、はたしてわたしはそれをどう感じるだろうか。 ********************************** 「…ユダヤ人は目なしだとでも言うのですかい?手がないとでも?臓腑なし、五体なし、感覚、感情、情熱なし、なんにもないとでも言うのですかい?同じものを食ってはいないと言うのかね、同じ刃物では傷がつかない、同じ病気にはかからない、同じ薬では癒らない、同じ寒さ暑さを感じない、何もかもクリスト教徒とは違うとでも言うのかな? 針でさしてみるかい、われわれの体からは血が出ませんかな? くすぐられても笑わない、毒を飲まされても死なない、だから、ひどいめに会わされても、仕かえしはするな、そうおっしゃるんですかい?」 (一幕ラスト/福田恒存版・シャイロックのセリフより)
上司のお供で、キャラメルボックスの「カレッジ・オブ・ザ・ウィンド」を観にいった。
昼公演だったこともあり、会場のサンシャインにはいつもよりずっと子どもが多く、世間は夏休みなのだと実感。 キャラメルボックスを観るのは半年ぶりぐらいだろうか。 前作の「まつさをな」より、ゴーストものなのだけれど明るいテイストの芝居で、子どもにもわかりやすい。夏休みに親子で観るのに合わせてきたか…という印象。 とはいえ、どこか哀しい演出は、やっぱりいつものキャラメルのそれで。さっきまでコミカルな雰囲気だったかと思いきや、音楽・照明が変わって一転、シリアスな場になるという、その転換がうまい。 「家族旅行」がキーワードとなるこの芝居を観て、最後に家族みんなで旅行したのはいつだったかと考えた。 実家に同居している祖父母も含めての旅行となると、たぶん10年以上前、わたしがまだ小学生だったころだろうか。 この芝居と同じように、「年に一度は家族で旅行」という我が家の習慣がまだ生きていたころのドライブ旅行で、わたしは10代という年齢にはありがちな、家族での旅行なんてうっとうしい、と思いをあらわにしての参加だった。 主人公が、普段はバラバラの家族をなんとかキャンプに連れ出したように、我が家の場合は、きっと母親の奮闘があっての旅行だったのだろう。 帰り道、家族というものは自然に成りたつわけではなく、誰かの努力があってようやく家族たりえるのだと、そんなことを考えながら、もしかしたら今後、それはわたしの役目になるのかもしれないと、ぼんやり思った。 < 前のページ次のページ >
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