昨年、大活躍だった園子温監督の話題の作品、『冷たい熱帯魚』を、ついに夫と一緒に観た。
日本アカデミー賞の式典の際に、水道橋博士が、「蝉より熱帯魚だろ」とつぶやいていたことをふと思い出し、わたしが観たいと言いだしたのだけれど、これは…カップルで観るにはあまりにも向いていない作品なのでご注意あれ。 わたしはエログロOK、というかむしろ観たがりな方だし、わが夫は映画のカテゴリーにかかわらず淡々と観るタイプなので、最後の方はもはや二人とも苦笑いしながら観ていたのだけど、予想以上に描写がエグく、うわさ以上にエキセントリックな作品で、そんじょそこらのホラーやミステリーでは揺るがずに眠れるわたしも、今回ばかりは本当に夢に出てきた。 まず、血がダメな人、エグイ描写がダメな人、不条理ものがダメな人は合わない作品。本当に観る人を選ぶ。 ただ、わたしは拷問シーンなどの「痛い」シーンがダメなタイプだけど、本作の場合、目玉となる「解体ショー」の時点ではもはや死人なので痛みは感じず、目を背けることなく観ることができ、妙な達成感があったり。 (「SAW」シリーズでは、被害者たちの絶叫が目にも耳にも痛くて、何度も目をそむけたのだけど) まったくもって万人にお薦めできるような作品ではないのだけれど、なんというか、すべてにおいて突き抜けているので、怖いもの見たさでトライして損はない…かも。 とにかく、助演のでんでん&黒沢あすかの、想像を絶するぷっつん演技が見どころ。 でんでんは怪演に次ぐ怪演で、人の良さそうな熱帯魚店の社長役から、完全にぷっつんしている殺人鬼を演じている。殺人鬼の妻役の黒沢あすかは、でんでんに輪をかけて、そのキャラクターの持つサド性マゾ性を演じ分け、偏執狂なまでのギャップを表現している。 ふたりともなにかが乗り移っている、というか、殺人鬼スイッチが入ると、それまでの「良い人」からの振れ幅がすごい。 「ボディを透明にすれば問題ない」と言って行う解体シーンは突き抜けている。一度でもう充分なのに、これでもかというぐらいに、三度も同じようなシーンがあり、もはや、観ている方も、感覚がマヒしてしまって、翻弄される主人公の吹越同様、慣れてしまうのがすごい。 さらに、本作は実話をベースにしているというのだから…まさに、事実は小説よりも奇なり。
昨年、ベルリン映画祭史上初の作品賞・女優賞・男優賞の3冠を達成し、アカデミー賞の外国語映画賞を受賞したイラン映画、『別離』を観に行ってきた。
ベルリン映画祭が話題になるたびに思うけど、「金熊賞」「銀熊賞」って、ネーミングがすてき。ベルリン市の紋章が熊だから、という理由らしいけど、妙に意味深で高尚な感じがする。 ![]() 本作は、結果的にある家族がバラバラになる話で、宗教、男女間・階層間格差、介護、教育と、イランが近代化するにつれて膨らんできた社会問題をいくつも扱いながら、決して難しい内容ではなく、むしろふとしたことから露呈する迷いや葛藤、嘘、弱さを描いている。 シンプルな作品タイトルからも想像が広がるように、受け止め方がいろいろありそう。 ![]() ある中産階級の家庭。進歩的な考えの妻・シミンは、娘の教育のためにイランを出たくて仕方がない。対して、夫・ナデルは、父親の介護のためイランを出る気はない。シミンは、移住のために夫との離婚を認めてほしい、と離婚調停に訴えるが、裁判官は訴えをしりぞけ、さしずめ作品全体のオープニング・クエスチョンのように、シミンに問う。 「あなたはイランが子どもを育てるにふさわしくないとお考えなのか?」 日本で子育てするわたしにとって、イランという国を、「子育てするにはふさわしくないと考える」のはたやすいことだ。しかし、生まれ育った地を捨てて、家族と別れてまで子どもと移住するという主張に、ふと、福島での原発事故が頭をよぎった。 あの地震直後の日々に感じた、放射能の言いようのない不安。本気で移住を考えた人も多いと思うし、実際、 日本ではもはや子どもを安全に育てられないのではないかと、海外脱出を試みた家族もいると聞く。 わたしには移住の決断はできなかったが、シミンのこの決意には、原発問題ときの自分の心境に近いものを感じ、親近感をおぼえた。 が、夫が離婚に同意しない以上、娘を伴っての移住は不可能。娘の方も、冷静を装いながらも、なんとか両親の仲を取り持とうとするのが、見ていて痛々しい。 ![]() しびれを切らして実家に帰った妻の代わりに、夫は、ラジエーという、自分たちよりも階級の低い女性に介護を依頼する。そして、この敬虔なムスリムであるラジエーとの間でいさかいが起こり、生命倫理に関わる事件に発展する。 事件の渦中で見えてくる、社会の階級差による価値観・倫理的のギャップが興味深い。イランといえばイスラム国家で、全体主義的なイメージがあったが、現実には、信仰心に対する思いや金銭に関する感情は、階層や性別によって多種多様なんだなと感じた。 【以下、ネタバレあり】 「なぜラジエーは流産したのか?」 真実はひとつのはずが、まるでミステリーを見ているかのように、関係者の証言は入り乱れる。 「ラジエーが妊婦とは知らなかった」と証言したナデルは、娘にだけは「実は妊婦だと知っていた」と打ち明ける。 「ナデルに押されて流産した」と主張していたラジエーは、コーランに誓えるかと問われ、「流産のほんとうの理由はわからない」と土壇場で意見を撤回する。 ラスト、別れを決意した両親のどちらについていくか、娘・テルメーの出した結論は、観客にはわからないままだった。 そしてまた、福島原発事故の影響は、現状もうそとほんとうが入り混じり、本当のところは「わからない」ままだ。 人間のあいまいさと弱さは、多くのすれ違いと悲劇を呼び、無情な別れに至らせるものだと、あらためて感じた作品だった。
個性的なタイトルが印象に残る映画、『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』を観てきた。
知能は高いけれども、繊細で不器用でまわりとうまくやれない少年・オスカーが、一番の理解者であった父親を9・11で亡くし、絶望から再生に向かうストーリー。この手の作品は、自分が母親になってからというもの、ついつい過剰に感情移入してしまうわけだが、本作も然り。 子役のトーマス・ホーン君が泣かせるのだろうなと想像はついたが、父親にトム・ハンクス、母親にサンドラ・ブロックというオスカー俳優が出演しつつも、ふたりともずいぶん抑えた演技をしていて驚いた。代わりに、おじいちゃん役のマックス・フォン・シドーが、年の功を活かして、かなりいい味を出している。 ![]() 『もし太陽が爆発したとしても、地球に光が届かなくなるのはその8分後。8分間はいつもどおりでいられる。』 オスカーは、最愛の父の最後の8分間と繋がっていたくて、父が遺した「1本の鍵」に意味があると信じ、その「鍵穴」を探す行動に出る。このあたり、数ヶ月前に観た『サラの鍵』を想起してしまうが、鍵というのは往々にして比喩の要素が高く、本作では、オスカーが「自分の内なる世界から出て、未知の世界の扉を開いてゆく」という意味合いがあるのだろう。 鍵の手がかりである「ブラックさん」を探すため、ニューヨーク中のブラックさんを訪ねるオスカーは、その過程で、パニックを抑えるためのタンバリンを片手にしながらも、苦手だったものを乗り越えていく。 例えば、ひどい音をたてる鉄橋とか、飛び降りられなかったブランコとか、テロの恐怖から避けていた公共の乗り物とか。 文字通り、父の遺した鍵で、新しい世界が開けてゆく。 ![]() そして、なかなか成果が出ず、くじけそうなオスカーのもとに、祖母の家の間借り人が現れる。 この老人、実はオスカーの祖父にあたる人物なのだが、どんな理由か口をきくことができない。ふたりは迷コンビよろしくブラックさんを探しまわり、間借り人は実働面ではほとんど役に立たないが、時に弱気になるオスカーの背中を押す役目だ。当然セリフはないけれども、ウィットに富んだ表情やしぐさだけで喜怒哀楽を表現していて、物語全体のユーモアとペーソスを底上げしている。 オスカーへの励ましの形が、間借り人のように鍵穴探しを共にすることや、ブラックさんたちの労わりのハグのように、目に見えるものもあれば、子どもの力を信じて陰で見守り、ひそやかに手助けするやさしさもある。オスカーの母親がそうだったように。 これぞ母親の忍耐を試される試練であろう。わが身を振り返ってみても、同じように黙って見守ることができるかどうか。 ![]() とりわけ父親っ子だったオスカーは、母親との口論のシーンで、「(死んだのが)パパじゃなくてママならよかったのに!」と叫び、あわてて「本心じゃないよ」と取り繕うが、母親であれば、本心ではないにせよ息子にそう言わせてしまった自分のふがいなさにもまた、罪悪感を覚えるものだろう。 ラスト、鍵の本来の持ち主を探し出し、母親にも言えずに、自分の胸のうちに秘めていた事実を吐き出せたことで、扉を開けて一歩を踏み出す勇気を得たオスカー。 「9.11文学の金字塔」と評される原作の期待を裏切らない、前向きで、心地よい救いのある作品であった。
ロマン・ポランスキー監督最新作『おとなのけんか』を観てきた。ヤスミナ・レザの戯曲『大人は、かく戦えり』の映画版で、原作は日本でもすでに舞台化されている。
どちらも味わい深い邦題。 ![]() こどものけんかの和解のために話し合うべく集まった2組の夫婦が、次第に大人の理性を忘れ、普段からの夫婦間の不満や、抱えていた我慢が爆発し、壮絶な舌戦に発展していくという、皮肉でコミカルなストーリー。 あくまで言葉の応酬であって、手が出ないのは、こどものけんかと違うところだが、「顔で笑って、心で殺意」とはみごとなキャッチコピー。ある意味、こどものけんかより始末が悪い。 本作は、被害者の親と加害者の親という、4人しか登場しない密室劇ゆえ、作品の出来はキャストにかかっていると言っても過言ではない。 被害者の両親にジョディー・フォスターとジョン・C・ライリー、こちらは自称・人権派の作家と金物屋の夫婦。 ![]() 加害者の両親にケイト・ウィンスレットとクリストフ・ヴァルツ、こちらは投資ブローカーと弁護士という、キャリア夫婦。 ![]() 最初は、社会の勝ち組・負け組的構造の対立で試合のゴングが鳴るのだが、蓋を開けてみると、夫婦間での対立や、男女間での対立と、どんどん組む相手が変わってバトルが続くのが面白く、ともすれば冗長になりがちな密室劇だが、飽きさせない展開になっている。 クリストフ・ヴァルツ演じる弁護士の、何度も何度も鳴り響く仕事の携帯電話に、気まずくなる雰囲気の一同。ダメ押しに、ケイト・ウィンスレットが、場を和らげるために出されたお手製のケーキを食べたあと、気分が悪いと嘔吐してしまう。それも、インテリ作家を自認するジョディー・フォスターお気に入りの画集の上に。 ジョディー・フォスターの怒りを押し殺した、わなわなと青筋を立てる表情の恐ろしいこと! リベラルでものわかりのいい良人を演じていた、ジョン・C・ライリーのブチキレ顔のせいせいすること! 酔っ払ったケイト・ウィンスレットの、愉快だけれど迷惑なこと! 淡々とマイペースだったクリストフ・ヴァルツの、携帯を失ったときの子どもみたいに落ち込む様子といったら! 4人の豹変っぷり、というか、素の姿が次々と暴かれていくのが面白い。 そして、4人の中で、一番、「良識の塊」であるようなジョディー・フォスターが、お酒に酔えないというのもうまい設定で、酔いたいのに酔えない・ハメを外したいのに外せないタイプの人間の哀しさを、コミカルかつイライラと演じていて最高だった。 でも、わたしが思うに、ここまで腹を割ってぶっちゃけバトルをしたこの4人は、このあと大親友になれるんじゃないかと。たとえ個人の主義主張を分かり合えなかったとしても、もはや彼らの間では、うわべの「良識」を気にすることはないのだから。
1月に劇団四季の『オペラ座の怪人』を観て、思わず購入してしまったDVD『オペラ座の怪人 ~25周年記念公演@ロイヤル・アルバート・ホール』。
前評判は聞いていたものの、実際、かなり臨場感あふれる内容で、このクオリティーの映像が自宅でいつでも観られるなんて、感激。 同じくロンドンのハー・マジェスティーズ・シアターで観たときと比べ、舞台美術の革新的な変化に驚いた。背景にLEDを使うことで、これまで成し得なかった奥行きと、スムーズな場面転換が可能になっている。特に、ファントムが鏡の中から登場するシーンや、隠れ家に向かうシーンなど、幻想的な場面において、現実に引き戻されることなく物語が進行する。 自宅や映画館で観ていると、LEDの画質の粗さが気になるところではあるが、劇場で遠目で観るのであれば、LEDは流れるような舞台装置としてとても「使える」のではなかろうか。 また、緞帳がないというのも、コンサートホールであるロイヤル・アルバート・ホールならではの特徴だが、LEDによって映し出された、すべるような緞帳の映像が美しかった。 キャストでは、いつもはファントムにばかり注目してしまうのだけど、今回は情感たっぷりのクリスティーヌを演じたシエラ・ボーゲスがすばらしかった。アップの画面にも耐えうる演技力、というか、歌だけでなく、その表情が本当に豊かで、何度ももらい泣きしてしまうほど。 もちろんファントム役のラミン・カリムルーも、低音の美声が麗しく、ファントムの才能と苦悩が伝わってくる。 カーテンコールでは、アンドリュー・ロイド=ウェバーやサラ・ブライトマンも登場し、歴代ファントムも加わってのアンコール『The Music of the Night』では、DVDにもかかわらず鳥肌が立ってしまった。 今後は実現不可能ではないかと思われるメンバー勢ぞろいで、本当に、贅沢。 ![]() 当初は怖がるかと思われた2歳の息子も、一緒に観るうちに「怪人のDVD見たい~!」とせがむまでに。『Overture』の「ジャーーーン、ジャジャジャジャジャ-ン」を口ずさみながら帰宅する毎日。 しかし、毎回毎回疑問がわいてくるようで…。 なんでマスクしてるの?やけどしたの?マスクはつくったの?すごいねー。 ただでさえ、「なんで?なんで?」の2歳児の波状質問に逐一答えるのは正直めんどうだけど、これも将来一緒に舞台を観に行くためには必要なこととして、なるべくマジメに答えている。 そして、確かに、このマスクのフォルムは、とても美しい。 「怪人のマスクは、マスク単体でも美術品のようでなくてはならない」という哲学のもとで制作されているのだとか。この美しいマスクは、ファントムの顔の醜さを隠すだけでなく、むしろ彼の美しさを引きたててくれるのだ。 しかし、息子のお気に入りはラウル。「かっこいいおにいさん、いつ出てくるの~?」と登場場面を心待ちにしながらも、「怪人はほんとうは怖くないね。お姉さんのことが好きなんだね!」 わかっているじゃないか、息子よ!これは、劇場で一緒に観劇できる日も近いか?
グアム行きの飛行機の中で、たびたび息子に邪魔されながらも、映画『TIME/タイム』を観た。細切れで観るには惜しい、目新しいシチュエーションの作品だった。
![]() 人類は平等に25歳で成長がとまり、その後は、各自1年間の持ち時間が寿命となる世界。時間が通貨となっており、家賃も食品も時間で売買されるという設定。 例えば、1ヶ月分の家賃は、1ヶ月分の寿命で払う、といったシステムだ。 富める者は100年でも100万年でも時間を保持しており、見た目は25歳のままで、ほとんど不老不死。一方で、貧しいものは明日を生きる時間すらなく、持ち時間が無くなればそれはすなわち死を意味する。生きるためには他人の時間を盗む輩まで出てくる。 と、序盤は、このユニークな世界観だけでぐいぐい引き込まれるのだが、残念なことに、中盤以降はやや中だるみ状態。よく練られた設定なので、もっとオチの付けようがあったと思うのだけれど・・・。 ![]() 主人公・ウィルは、スラム街で母のレイチェルと生活し、日銭(時間)を稼いでいる。暮らしは困窮しており、二人とも、日々の持ち時間(寿命)は24時間を切っているような生活だ。 ある夜、レイチェルはウィルとの待ち合わせ場所までバスで移動を試みるも、バスの料金は「2時間分」と、急に値上がりしていた。彼女の持ち時間はそれに満たないため、バスには乗れないが、しかし待ち合わせ場所まで歩くと2時間はかかる。これはつまり時間切れ、彼女の死を意味するのである。 絶望するレイチェルに、バスの運転手は哀れみながら言う。「では走れ」と。 このレイチェルが走るシーンの鳥肌感ったらないが、正直、全体を通して、このシーンがクライマックスだったような気もする。 ![]() ウィルは母親の死を目の前にし、このいびつな時間格差社会構造をぶちこわそうとする。 こんな社会システムを作った巨悪が存在するのか?と思いきや、そうではなく、システム内で時間を為替のように操作している富裕層への逆襲、といったところだろうか。 それも、大富豪の娘・シルビアとの逃避行や恋愛譚が入り混じり、なんだか通俗的な恋愛アクションになってしまったのは残念だった。 時間を奪うタイムギャングという生業があったり、タイムキーパーという時間監視局員が出てきたり、スラム街と富裕地区を隔てるタイムゾーンという料金所があったり。 本当によくできた設定なのに、そこで展開されるストーリーがやや陳腐で、通俗的だったことは、残念でならない。もうひとひねり、ほしかったな。
ヴィスコンティのような映像美、という触れ込みが気になって、『ミラノ、愛に生きる』を劇場で観てきた。
舞台はミラノの富豪一族。もはや「ミラノ」というだけで、そこはかとなくヴィスコンティを感じてしまうわたし。ポスターの重厚さにもテンションが上がり、登場人物の名前まで、『山猫』でアラン・ドロンが演じた役名「タンクレディ」と同じなので、これってオマージュなのかしらと妄想も膨らむが・・・。 ![]() 主人公はロシア出身だが、ミラノで繊維会社を営む名家・レッキ家に嫁いでからは、ミラノに馴染むこと、一族に溶け込むことだけを考えて、自分の意思を押し殺してきた生活してきたエンマ。 たくさんの使用人を使って大きな家を切り盛りをする姿は、もうすっかり慣れたようでもあり、一方でどこか所在なさげでもある。 エンマの3人の子どもたちはそれぞれ独立する年齢にきているが、長男のエドアルトだけ、なぜかロシア語が話せるのは、赤ちゃんのころにエンマがロシア語で話しかけていたせいだろうか?そんなシーンがあるわけではないが、同じ母として、言葉も通じぬ異国の地で、産後の孤独に耐えようとするエンマの姿が目に浮かぶ。 そんな、家族の中でエンマの一番の理解者であるエドアルト。エンマは、彼の親友のシェフの料理を食べたのをきっかけに、官能をおぼえ、とまどいながらも愛を感じる。 さらに、「私はレズビアン」と、自分に正直に生きる娘にも感化されたのだろう。抑圧された心を解き放つかのように、息子の親友と情を通じてしまう。またこのシーンの描写が古臭いけども美しいのだ。 が、不倫によって身も心も自由を謳歌するエンマへの代償は、あまりにも大きかった。わたしなら、耐えられないほどに。 ![]() さて、確かにレッキ家の晩餐会のシーンは華麗だが、それでもやはりヴィスコンティ作品とは種類が違う、というのが私見。繊維会社は売却し、家族はバラバラに、という斜陽ストーリーのわりには、退廃という雰囲気がないのが原因か。 しかし、ミラノの窮屈な家(物理的にはお屋敷なのだが)と、サンレモの自然のひろがりの対比がすばらしく、自然の中で解き放たれて自由にふるまうエンマは、とても魅力的に映し出されている。昔、劇場で観た、『レディ・チャタレー』の映像を思い出すくらいに。 そして注目の「タンクレディ」だが、エンマの夫である彼は、あまり主張のない役ながらに、裏切った妻に対し、「きみはもう存在しない」と決定的な拒絶を下す。タンクレディの性格が出るシーンはあまりなかったけれども、都合の悪いものは「存在しない」とみなすタイプの人間なのね、という印象。 最後に次男。彼にはビジネスのセンスはあるようだが、いかんせん影が薄く、作品のポスターにすら登場しない。・・・次男、いらなかったんじゃないかな・・・。
一昨年前の東京国際映画祭で最優秀監督賞と観客賞を取り、原作の小説も評判になっている『サラの鍵』を観てきた。
『灼熱の魂』を観たときにも感じたが、このクオリティの作品が単館での上映だなんてもったいなさすぎる。が、そもそも日本で上映されるかどうかすら、おぼつかない状況だったらしいので、公開されただけでもよかったと言うべきか・・・。 ![]() 第二次大戦下のパリ。迫りくるドイツの影に、パリに住むユダヤ人にも、ナチスの手がかかる。 10歳のサラが両親と弟と住むアパルトマンにも、警察がやってくる。サラは弟・ミシェルを守るため、怖がる彼を「かくれんぼだと思って。私が来るまで決して出ないと約束して」と言って納戸に隠れさせ、外側から鍵をかけて、警察には「弟は留守だ」と嘘をつく。 家族を守るため、よかれと思ってついた嘘・・・。 これが大きなアダとなる。たった10歳の少女がひとりで背負い、墓場まで持っていく「鍵」になる。 サラはすぐに家に戻れると思っていたが、実際はそうではなく、サラと両親はこのままユダヤ人収容所へ連れて行かれる。 このユダヤ人一斉逮捕は、歴史上、「ヴェルディヴ事件」と言われるが、これがドイツ軍によるものではなく、フランス警察によるものだった、という事実は、数年前にシラク大統領が認めたところだ。本作を見るに、フランス国内でも若い世代にはあまり知られていない様子だけれど。 物語はサラの視点で進むのかと思いきや、時代は現在のパリに移り、このヴェルディヴ事件の取材をするジャーナリスト・ジュリアが主人公である。彼女はパリに住むアメリカ人で、取材時にサラの存在を知るのだが、それとほぼ同時に、45歳にして念願の妊娠が判明する。 しかし、喜んでもらえる思った夫には高齢の出産を反対され、人生の選択を迫られる中で、のめり込むようにサラの消息を追い、アメリカやイタリアまで飛ぶ。そして、ときには自分の家族を敵にし、サラの家族に疎まれながらも、真実を追求する。 ![]() ジュリアの取材に導かれるように、観客も、「納戸の弟はどうなったのか?」「サラは生還後どうなったのか?」と疑問は深まる。そういう意味では謎解きの要素はあるが、言ってしまえば赤の他人のジュリアが、なぜそこまでしてサラを追うのか、その理由がわたしは気になった。 サラの「鍵」を重荷の象徴と捉えるならば、ジュリアの胎児もまた重荷ということになる。ジュリアは、サラの人生を自分に重ね合わせ、出産かあるいは堕胎か、納得のいく選択をしたかったということだろうか。 いずれにせよ、戦時中のことともなると、ひとりひとりの歴史などは、大勢に比べれば塵芥のようだ。それを掘り返し、光を当てること。真実を後世に語り継ぐことでもらえるパワー。 本作がサラの視点で描かれず、妊婦のジャーナリストがサラの人生を紐解く、という多重的な構造にしたのは、ここに意味があるのだと思った。
またしても夫のチョイスとなるDVD『127時間』を観た。
公開時、わたしは全然知らない映画だったけれど、夫いわく、ネットで話題になっていたらしく、また『スラムドッグ$ミリオネア』の監督ということで期待は高まる。 本作は、登山中に狭い岩場で、落下してきた岩に右手を挟まれて身動きがとれなくなり、遭難してしまった登山家・アーロンの話。その挟まれていた時間、127時間を描いた実話である。 遭難するまで、主人公アーロンがどんな男なのかの説明はほとんどないのだけれど、アマチュアの週末冒険家で、家族にも行き先を告げずに出かけるのが常のよう。 そして、遭難中の127時間、特に後半は妄想と回想で占められ、ここではじめてアーロンの過去が浮き彫りになる。死と向き合う中で、子ども時代の幸せな記憶、親への感謝、恋人との別れ、後悔など、走馬灯のように過去の映像が走る。 面白いのが画面の構成で、主人公の感情が高ぶるシーンでは、画面が三分割されている。これによって、まるで過去・現在・未来を見ているように、時間を超えての表現が可能だ。 観客は洋楽のPVにありそうなドラッグ的疾走感を、アーロンはパニック状態でハイになっていく様子を、シンクロさせるような描写になっている。 ラストの見せ場、岩場を脱出するために彼が取った方法とは? まあ方法はひとつしかないから最初から想像はつくのだけど、使える道具がないから、かなり肉体的な無理が必要で…。このシーンは本当にグロくて、『SAW』では平気だったわたしも目をそむけてしまった。 けれども、127時間も耐えずに、最初からその方法を取ればよかったのに、と観ている側が思うのは浅はかだ。 その行為は、もう一滴も水がない、尿も出ない、助けにくる見込みもないという極限の状況になって、一種、正気を失っていないとできないことなのだから。 見ている方も正気ではいられないラストだが、アーロンが予知夢で見た、その後に訪れるだろう平穏な家庭が、救いでもある。
自分ではきっと借りてこないタイプのDVD『世界侵略:ロサンゼルス決戦』を夫が借りてきて、つくづくSFに関しては趣味が一致しないなあと思いながらも、食わず嫌いはいかんとの思いで鑑賞。
本作は、謎の地球外生命体が世界各地の都市を侵略しようと攻撃してくるのを、ロサンゼルスの海兵隊が阻止しようとするという、なんともアルマゲドン風なストーリー。 ここぞというシーンでは、エアロスミスが空耳で聞こえてくるぐらい。 この海兵隊のある部隊に、やたらダイ・ハードな主人公がおり、敵陣に乗り込み、民間人を避難させるという、インポッシブルなミッションを完遂する。 もちろん、主人公が過去に部下を死なせて罪悪感をかかえている、というトラウマはお約束の設定。 地上も制空権も侵略者に奪われ、絶望的な状況の中、不屈の精神で戦う海兵隊。 しかし苦境を脱するには、チームプレーを逸脱してでも、突出したスタンドプレーヤーが必要なのだと実感。 さらに戦場では、状況に応じて即座に決断することが問われる。その決断がいいか悪いかは問題ではない。とにかくリーダーは「決めること」が重要で、実際の戦闘では、決めないことは部下の無駄死にを招く。これは、戦時のリーダーなら自明の理だろう。そして、リーダーはスタンドプレーヤーになってはならない。 と、いつかどこかで見聞きしたような作品なので、特段の驚きはなかったのだけれど、侵略者の基幹である中央システムの形状が、ラピュタらしき姿だったことだけ、記憶に残ったのだった。 < 前のページ次のページ >
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