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カテゴリ:アート
  • 『生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー』レビュー
    [ 2012-04-28 23:29 ]
  • 『セザンヌ ~パリとプロヴァンス展』レビュー
    [ 2012-04-15 23:28 ]
  • 『松井冬子展 ~世界中の子と友達になれる』レビュー
    [ 2012-03-18 23:17 ]
  • 『ジャン=ミシェル・オトニエル:マイウェイ展』レビュー
    [ 2012-02-23 23:36 ]
  • 『フェルメールからのラブレター展』レビュー/キュレーションの巧
    [ 2012-02-04 23:12 ]
  • 『スーパーエッシャー展』レビュー/数学と芸術の結婚
    [ 2007-01-05 23:57 ]
  • 『藤田嗣治展』レビュー/巴里へのあこがれ
    [ 2006-05-21 23:40 ]
  • 『ロダンとカリエール展』レビュー
    [ 2006-04-18 23:50 ]
  • 『スコットランド国立美術館展』レビュー
    [ 2005-12-22 23:32 ]
  • 続・『北斎展』レビュー/ほとんど虫の息で
    [ 2005-12-02 23:47 ]
『生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー』レビュー
学生のとき、パリのセーヌ河畔でポスターをひとめ見て虜になってしまった写真家、ロベール・ドアノー。そのときには、そんなに有名な写真家だったとは知らなくて、これは一期一会かもしれないと、その場でフランス語の写真集を買ってしまうほどだった。

あのころから、もうすでに10年経ってしまったけれど、東京で回顧展『生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー』が行われると聞いて、当時の新鮮な気持ちがよみがえってきて、はじめて東京都写真美術館へ行ってみることに。しかし、恵比寿ガーデンプレイスはオトナ向けで、なんとも落ち着く場所だなあ。


第二次大戦後のパリで活躍し、市井の人々の日常を切り取った作品は、どれもセンスが秀逸。
これまでわたしは、代表作『パリ市庁舎前のキス』(この写真で恋愛の都・パリへのあこがれが募ったものだった…)を筆頭とする「恋人たち」シリーズと、思わずにんまりしてしまうユーモアをたたえた「ギャラリー・ロミ」シリーズが好きだった。

が、今回の展示ではじめて観た「ポートレート」シリーズが、被写体の個性を絶妙に写し出していて、たいそう面白かった。
ピカソやコクトーやボーヴォワールなど、同時代の有名人を撮影しているのだけれど、いちいち遊び心が溢れることといったら!
特に、ジャコメッティとレイモン・サヴィニャックはすごく愉快なポートレートに仕上がっていて、ロベール・ドアノーは本当に人が好きで、被写体のアーティストたちもロベールのことが好きだったのだなぁと。

また、子どもに焦点を当てた作品群は、どれもほのぼのして、くすっと笑えるのだけど、その中でも特に、『リヴォリ通りのスモック姿の子供たち』という作品にシンパシーを感じた。一列に並び、前の子のスモックをつまんで、カルガモの雛のように、道路を渡る子どもたち。園児を持つ母親なら、微笑まずにはいられない作品だと思う。
仕事中の癒しのために、この写真のクリアファイルと絵はがき、そして今回は展覧会の図録も購入してしまった。


「ポートレート」シリーズを除いては特別な被写体ではないし、本当に、単なる日常のひとコマなのだと思うのだけど、こんなにセンスよく一瞬を切り取れるなんて、ロベールはよほどの観察眼の持ち主で、忍耐力のある人だったんだろうなと。
パリの街が、5割り増しで好きになること間違いなしの展覧会だった。
by chatelaine | 2012-04-28 23:29 | アート | Trackback | Comments(0)
『セザンヌ ~パリとプロヴァンス展』レビュー
夫と一緒に『セザンヌ ~パリとプロヴァンス展』に行ってきた。
1年ぶりくらいに訪れる国立新美術館は、これなら息子を預けなくてもよかったかな、というぐらい、予想よりも空いていて、スムーズに観ることができた。


実を言うと、セザンヌのことは、そこまで好きな画家というわけではなく、果物の静物画の人、ぐらいの認識しかなかった。
今回、100%セザンヌな展覧会で、これだけじっくり彼の作品ばかり観てみると、いろいろなことに気づいた。

プロヴァンスといえば地中海のイメージが強かったけれど、同時に山の緑の豊かなこと。
りんごの静物画にはあたたかみがあって、「静物画」という言葉の響きから連想する冷たさがないこと。
テーブルナプキンの皺とか、ダマスクス柄の織物の文様とか、一見無造作に見えるりんごの配置も、実は計算しつくされ、作りこまれているということ・・・。

で、こういう画家に焦点を当てた企画展だと、作品はもちろんだが、画家本人に興味が出てくる。
セザンヌは、りんごをモティーフに100点以上の作品を描いたり、お気に入りの陶器を十何年にもわたって描き続けたり、なかなかこだわりは強そうな御仁だ。 プロヴァンスの裕福な家庭の出身だが、田舎者であることには間違いなく、都会の貴族出身のドガを敵視していた、というエピソードも人間味があって面白い。

とはいうものの、当時の文化の粋を集めた花の都パリと、自然の美しいプロヴァンスを行ったり来たり、デュアルライフを送っていたよう。 なんとも贅沢なライフスタイル。
最後に展示されていた、プロヴァンスのアトリエの再現も、セザンヌのお気に入りのものたちに囲まれた生活を想像させる、とても興味深い内容だった。


国立新美術館は、5月にも、『エルミタージュ展』のために来館する予定。
帰りがけにポール・ボキューズのメニューをちらっと見たら、キッズランチができていたので、次回は子連れランチしたいところ。
by chatelaine | 2012-04-15 23:28 | アート | Trackback | Comments(0)
『松井冬子展 ~世界中の子と友達になれる』レビュー
数年前に、森美術館で『無傷の標本』という作品をみてから、ずっと気になっていた日本画家・松井冬子。満を持して、横浜美術館で開催された『松井冬子展 ~世界中の子と友達になれる』の最終日に行ってきた。


松井作品は幽霊や内臓が露出した人間の作品が多く、どうしても見た目のインパクトがグロいので、「怖い~!オバケ~!」と騒がれるのを避けるため、今回は2歳の息子にはご遠慮いただき、近場のパンパシフィック横浜の託児へ。

で、ひとりでゆっくり観た結果、かなり好みの画家だということがわかった。今年に入ってから行った、フェルメール展オトニエル展も、さわやかですがすがしい後味なんだけど、わたしは断然こっちのドロドロ感の方が好み。趣味が悪いといわれようと、人間の暗部が好きなんだから仕方がない。特に女性性にまつわる描写に関しては、もうどんぴしゃ好み。

<お気に入り作品>
■『体の捨て場所』
・・・なんという恍惚の表情。この女性の浮かべる不思議な笑みは、松井冬子氏が美術の道を進むきっかけとなったモナ・リザのようだ。

■『この疾患を治癒させるために破壊する』
・・・千鳥ヶ淵の桜の絵。本来、桜のもつ狂気が見事に描かれている。

■『喪の寄り道』
「喪が仕上がらない様子を描いた。大切な人が取り返しもつかず失われたと知っているのに、それを再発見しようとする。失うという脅威は、過酷な自己愛に閉じ込める。極限的な孤立から、後追い自殺のように同調しようとしても、喪の苦痛は転換されない。」(キャプションより)
・・・ふと、子どものころに好きだった『悪魔(デイモス)の花嫁』というマンガを思い出した。人間の弱さや醜さ、破滅や喪失を描いた作品で、この絵はまるでその世界観を体現する作品だなあと。

こんな具合に、作品のタイトルもさることながら、ついているキャプションが意味深長で、哲学的ですらある。うーん、京極夏彦氏と死生観について対談してほしいところ。


<タイトルだけで萌える>
■『優しくされているという証拠をなるべく長時間にわたって要求する』
・・・生まれてすぐの赤子のことを描いた作品。冬子女史にかかると新生児もこんな表現に。

■『絶え間なく断片の衝突は失敗する』
・・・意味はよくわからなくてもなんだか哲学的というだけで惹かれるタイトル。

■『引き起こされた不足あるいは過剰』
・・・過不足って狂気だよなと感じたことは、ある。

もう、こういうタイトルを深読みするのが大好きなわたしは、興奮のあまり図録を即決で購入したものの、図録にキャプションが載っていなくて非常に残念…。託児の都合で美術館には2時間弱しかいられず、説明を隅々まで読むことはできなかったので、自宅でゆっくり堪能しようと思ったのだが。
ただ、一緒に購入した『美術手帖』には一部載っていた。これはもう、わたしの本棚の永久保存版。

美術手帖 2012年 02月号

美術出版社

保存版です!

スコア:



ちなみに、横浜美術館では、「子どものアトリエ」という子ども向けのワークショップが充実していて、2~3歳の未就園児であれば、「親子のアトリエ」という親子で楽しむ造形コーナーがある。どうせ横浜まで行くなら参加してみようと目論んでいたのだけれど、朝寝坊のわたしにとって、朝10時にみなとみらいというのは非常にハードルが高く、今回もワークショップが終了した11時半ごろに到着というありさま。

次に横浜美術館に来る機会があったら、近隣のホテルに一泊しようかなと。前日はみなとみらいで遊んで、中華街でごはんを食べて、翌日は朝イチで美術館、なんていうプチ旅行を企画したいな。

**********************************
「痛覚は、われわれの身体的共感を持ち、直観的なるものを暗示している。その痛覚をアウフヘーベンし、美術として飛躍されられると私は信じている」(『松井冬子展』図録より抜粋)

「自分が壊れるかもしれないという、死に近い状態で、生きるためのエネルギーが放出されている瞬間、その禍々しさに魅力を感じます」(『美術手帖』2012年2月号より)

「狂いそうで狂わない。絵もそうであってほしいし、美術はそうあるべきかなと思います」(『美術の窓』2005年7月号より)


by chatelaine | 2012-03-18 23:17 | アート | Trackback | Comments(0)
『ジャン=ミシェル・オトニエル:マイウェイ展』レビュー
原美術館の『ジャン=ミシェル・オトニエル:マイウェイ展』に、夫と2歳の息子と行ってきた。


パリのポンピドゥーセンターで20万人を動員したという現代アーティスト、という説明よりも、パリのメトロ「パレ・ロワイヤル ミュゼ・ド・ルーブル」駅のエントランスを飾るガラス作品をつくったひと、と言われた方が、わたしにとってはピンとくる。ああ、あの色とりどりのガラス玉の、と記憶がよみがえり、それと同時に、懐かしいパリのにおいや空気も思い出す。
あの駅の作品は、『夢遊病者のキオスク』というタイトルらしい。はじめて知った。


今回は、会場が原美術館という、子連れウェルカムな美術館(とわたしが勝手に捉えている)ということもあり、2歳のやんちゃざかりを連れて、館内をぐるっと一周。息子も最初は「なにいろ?」などと興味を示すも、やはり動き回りたいようで、先へ先へと進みたがる。



もう館内で絶対に息子の手は離しませんよ。なんせガラス作品。万が一があったらと思うと…想像しただけで怖すぎる。なので、せっかくの撮影可能なチャンスも、iPhoneで片手撮りとなってしまった。
ちなみに、同行した夫は、初めて来た原美術館の建築構造が気になるらしく、ひとりで飄々と先へ行ってしまい、まったくもって戦力外…。


というわけで、じっくり足を留めて観ることは叶わなかったけれど、本当に色彩が豊かなムラーノ・ガラス。戸外に展示された作品も、冬の太陽のやわらかい光をうけて、控え目ながらもきらめいていた。
知識もうんちくもいらない。きれいだねえという言葉だけで、幸せな気分になる。
そのほっこりとした感情に、昔、ヴェネツィアからおそるおそるムラーノ島に渡ったときの、既視感のようなものを感じた。きらめくガラスの、色とりどりのやさしい島。



ちなみに、この展覧会では子ども向けワークショップも常時開催されていて、「ふしぎな現実」という3Dワークショップなのだが、これがまた大人も一緒に楽しめる内容だった。

また、原美術館には芝生の中庭もあるので、展示に飽きた子どもを放牧させるのにちょうどよい。しかし、庭の四方には現代アートが鎮座しており、なんの変哲もない普通の石に見えるものが、実は「アート」だったりするので、子どもがイタズラして乗ったり蹴ったりしないように、見守っている必要はあるのだけれど。



と、ヨーロッパを思い出しながら、子連れで十分楽しめる展覧会だった。
原美術館へは、お天気のいい日に、ぜひ。
by chatelaine | 2012-02-23 23:36 | アート | Trackback | Comments(0)
『フェルメールからのラブレター展』レビュー/キュレーションの巧
bunkamuraという子どもを寄せ付けない会場と、その人気ゆえの混雑さを慮り、3歳の子どもと鑑賞するのは厳しいだろうという判断で、単身、『フェルメールからのラブレター展』に行ってきた。


久しぶりに行く、改装後のbunkamuraザ・ミュージアムも、相変わらず展示方法が上手。
作品間のスペースの取り方といい、額装といい、絵を邪魔しないセンスがあり、さらにメインであるフェルメール3作品をひとつの空間に展示していたのには、なんて贅沢なと感嘆してしまった。

さて、本展覧会ではフェルメールが3作品来ていて、とりわけ修復されたばかりのラピスラズリのフェルメール・ブルーは繊細で、目に美しく、鮮やかだった。当時は、色を作りだすのも画家の技量だったわけだから、きっと門外不出の青だったんだろうなぁと想像しながら、真ん中のソファーにぼんやり座ってながめることの贅沢よ・・・。子連れではありえない楽しみ方。

そして特筆すべきは、フェルメール以外の作品を、いかに魅せているか、ということであろう。
どんな展覧会でも、メインにはお客は集まる。いかにして、サブの絵に関心を持ってもらえるかで、展覧会全体の真価が問われるのだから。

そういう意味でもこの展覧会は、「手紙」、ひいては「17世紀当時のコミュニケーション」を切り口に作品が集められており、さまざまな画家の作品群を、ひとつのテーマでうまく繋げて、ストーリー性のある展覧会になっていることに、キュレーションの巧みさを感じた。
と、同時に、やっぱりわたしはストーリーのあるものが好きなんだなと再確認。

さいごに、最近では、多くの美術館で子ども向けのワークショップなどが見受けられる中、bunkamuraザ・ミュージアムでは子ども向けのイベント等はあまり見かけないことに気づいた。同館の映画や舞台のラインナップを見ても、完全に成熟した大人がターゲットなのだろうとは思うが、個人的に好きなジャンルが多いだけに、残念。
せめて館内に託児施設があれば、もっと子育て世代もbunkamuraの提供するエンタテインメントに行きやすいのになぁ。と、完全に私的願望を抱えたまま、会場を後にしたのだった。
by chatelaine | 2012-02-04 23:12 | アート | Trackback | Comments(2)
『スーパーエッシャー展』レビュー/数学と芸術の結婚
新年会の翌日、仕事も早々に切り上げ、社内でも評判が高かった『スーパーエッシャー展』に行ってみた。

今回、久しぶりのbunkamuraだったのだけど、驚いたのは、オーディオガイドの代わりに、ニンテンドーDS Liteを貸し出して、絵の説明をするサービスがされていたこと。一人一台の数があり、しかも無料。

先に説明を受けてしまうと作品をみて想像力がはたらかない、という弊害はあれども、説明を聞くか聞かないかを選ぶのは個々人なので、こういうサービスこそ国立の美術館がやってくれてもいいんじゃないの?
と愚痴をおぼえつつ、DSを片手に観てまわる。


エッシャーの騙し絵は教科書にも載っているし、最近お気に入りの伊坂幸太郎の小説にも何度となく出てくるので、馴染みはあったけれど、実のところホンモノを観るのははじめてだった。

◆「昼と夜」…第一印象は面白い!よくよく見ると、非常に怖い。
◆「円の極限」…無限の世界を版画で表す?ほとんど狂気じみている。
◆「版画の回廊」…こんな世界にだけは迷い込みたくない、ぞっとする。
◆「渦巻き」「ドラゴン」「滝」…ど、どうなっているの~?まばたき厳禁。

これらの作品を一つだけを抜き出して観ると、いったいどうやって描いているのだろうと首をひねるところなのだが、時代を追って順番に観ていくと、突拍子もない構図に到達した過程がわかって、まるでパズルの解答をみているみたいな気分に。


緻密な数学的論拠に基づきつつ、あえてその計算をハズして遊んでみたり、挑戦してみたりと、遊び心たっぷりなエッシャーのスピリッツ。

「わざと二次元と三次元、平らなものと奥行きのあるものをまぜこぜにしたり、引力をからかったりするのが、楽しくてなりません」

既存の概念をちょっとコケにするような、皮肉るような描き方は、まるで伊坂幸太郎の文体とリンクしているようで、伊坂のエッシャーへの敬愛っぷりを感じてしまった。


そして、奇抜な構図に気をとられてついつい忘れがちになってしまうのが、エッシャーの作品はほとんどが木版画であり、デッサンの後に、彫るという作業が必要になってくることだ。

「私はアーティストよりも数学者や科学者に親近感をおぼえる」

学者が地道な研究を積み重ねて世紀の発見に至るように、エッシャーも地道に彫り続けて新しい世界観の作品をつくりあげ、世の中に衝撃を与えた。実際、エッシャーデビューの私には、身震いする作品の多いことといったら…。


そうしてふと、小川洋子が『博士の愛した数式』を書いたときに、「数学と文学の結婚」と評されたことを思い出した。
エッシャーもまた、数学や自然科学を愛し、それらを誰にでもわかるかたちで表そうとした、いわば「数学と芸術の仲人」とでも言えるのではないだろうか。

「私は数学を教えはしない。ただ人をちょっと驚かせたり、まごつかせてみたいだけのこと」

かなり、人のわるい仲人だけれども。
by chatelaine | 2007-01-05 23:57 | アート | Trackback | Comments(0)
『藤田嗣治展』レビュー/巴里へのあこがれ
ポスターだらけの私の部屋で、現在のところ貼ってある数が多いのは、フジタの作品である。
彼との出会いはどこだったか、正確には覚えていないのだけれど、どこかのギャラリーで『魅せられたる河』という連作の葉書を購入し、すっかり気に入って、一年ぐらい貼りっぱなしの状況が続いている。


が、気に入ったといっているわりに、最終日になってようやく、『藤田嗣治展』に行くことができた。そして入場を待つこと一時間…。

事前に『芸術新潮』と『ユリイカ』の特集を読んでいたので、おおまかな展示内容は知っていたけれど、やっぱり、本物の「乳白色」はすばらしく色っぽい。誌面とは比較にならないわ。

陶磁器のような、石膏のような、肌のつや。
白に、ほんの一滴、乳色を垂らしたような、すべらかな色あい。
油彩であることが信じられない、すきとおった質感。
…こんな肌の女性が、当時のパリに本当にいたのかは疑問だけれど。


まるでピカソのように、フジタもまた、画風をころころと変えていった画家の一人である。
本展では、キュビズム調の静物画から、極彩色の南米の描写、臨場感溢れる戦争画、そして洗礼を受けてからのキリスト教絵画まで、さまざまなフジタがみられることがウリとなっている。

私の場合、画家の代表作といわれる作品はあまり好きにはならないのだけど、フジタに関してはやっぱり「乳白色」の女性が好きなのだと再認識。

彼の描くパリの文化は軽やかで、女性は繊細にして優美、また彼のトレードマークの猫たちはお茶目でいてどこか高貴でもある。
とりわけ、「カフェにて」という代表作は、私のパリへの憧れの要素が詰まりきった作品だ。


帰りに、「カフェにて」のリトグラフが飾ってある、私のおきにいりの喫茶店に寄った。
この喫茶店は、古書と美術書と写真集にあふれ、学生のころはレポートを書きによく通ったのに、社会人になってからはとんとご無沙汰になってしまっていた。

学生のころには日常だった、美術展のカタログをみつめながらお茶をする時間が、とても貴重なもののように、いまさらながら感じた。
by chatelaine | 2006-05-21 23:40 | アート | Trackback | Comments(0)
『ロダンとカリエール展』レビュー
代休の二日目は、西洋美術館で開催中の『ロダンとカリエール展』へ。
平日なので空いていて、カリエールは日本ではあまりメジャーではないし、評価もされていないので、空いていただけなのかもしれないが、ゆっくり鑑賞することができた。

「ロダン展」だけならば、日本でも腐るほど行なわれているし、たぶん私は行かなかったと思うけれど、ロダンとカリエール、という組み合わせが気に入った。このペアでの企画展は、世界初らしい。


二人は意外なほど多くの共通点を持っていて、同じ時代に生き、象徴派に属し、深い親交を持っていたというだけでなく、作風や作品テーマ、モティーフにも類似性がある。

ロダンの彫刻とカリエールの絵画。ジャンルがちがうのに似ているというのはおかしな話だが、特筆すべきが、輪郭のあいまいさである。

私はもともと、ロダンについては、「考える人」ような大作や「ユゴー」などの肖像よりも、浮き彫りが好きで、今回の展示でいえば、「最後の幻影」や「回復」などがそれにあたる。
大理石から生まれ出でる途中なのか、大理石へ沈んでゆく(死んでゆく)途中なのか、どちらとも取れるところが、浮き彫りの魅力。
そこには、いまにも消えてしまいそうな、はかなさが感じられる。

この、じんわりと輪郭がぼやけ、消えてしまいそうな雰囲気が、カリエールの画風にとてもよく似ているなぁと。彼の絵は、使われている色が少なく、背景と人物の境界線がぼやけ、ロダンの言った「カリエールもまた彫刻家なのだ!」という言葉も納得である。

ぼやけた輪郭、あいまいな境界線。
大理石から、暗闇から、混沌から、すうっと現れる、人。
このあたりは、二人の「ジャンヌ・ダルク」という作品を観比べれば、実感するかと思う。


そして、カリエールの絵には、母性を感じさせるものが多い。ロダンの有名な「接吻」が男女間のものなら、カリエールの「母の接吻」と題された絵は、名前の通り、母子のそれだ。
ほかにも、「おやすみの接吻」や「母と子」、「愛情」(これも親子間の)など、まるで、セピア色に変色してしまった古い家族写真のようなあたたかみを感じる。


それにしても、私は、象徴派の講義を取っていたのだから、オルセーでカリエールの作品を観たはずなのだけれど、まったく印象に残っていないのはどういうことだろう。
オルセーでは、ほかの著名できらびやかな作品に目がいってしまっていたのか。もったいないことをした。

カリエール単体では気づかなかった魅力も、ロダンと比較し、違った面から光をあてることで、輝き出す。
そういう意味では、今回の企画展の組み合わせは、とても斬新で意義深いものだったと思う。
by chatelaine | 2006-04-18 23:50 | アート | Trackback | Comments(0)
『スコットランド国立美術館展』レビュー
ここのところ美術鑑賞を怠っている。興味の対象の展覧会がないということもあったが、『キアロスクーロ展』、『プーシキン美術館展』という大展覧会も逃してしまい、これでいいのか美術史専攻、というわけで、罪滅ぼしもかねて、『スコットランド国立美術館展』に行ってきた。

ひとりの画家の軌跡を追った個展、もしくは同一のテーマで集められた作品の展覧会が好きな私にとって、美術館という枠で集められ、一貫性のない作品群を観る行為は、そこまで好みではない。

しかも、スコットランドは行ったこともなければ、代表となるアーティストも知らない。
それでも足を運んだのは、スコットランドの絵画ならば、この夏に行った英国の、画壇の影響もあるだろうと思ったから。そして、フランス印象派の作品もきているというウリもあったしね。


行って正解だったと思ったのは、好きなミレイの作品がきていたこと。一点だったけれど、ミレイらしい繊細な色調で、タイトルもまた「優しき目は常に変わらず」、とオツな感じ。ただ欠点は、ミレイが描くと、優しき目には見えず、妖しき目になってしまっていること…(笑)

主催者がウリにしていた、フランスの印象派…モネやルノワールやモリゾなどは、やっぱり本家フランスに焦がれる身としては、物足りなさを隠しきれなかった。ただ、クールベの作品でひとつ、目に鮮やかなブルーのものがあって、これは実際人目をひいていた。


スコットランド陣営についてはまったく知らない画家ばかりだったけれど、フランスだけでなく、やはりイギリス色も濃厚なように感じた。ミレイの影響はもちろん、ターナーの、くすんだような風景画のニュアンスを醸し出している作品もあり、夏にイギリス絵画をみたおした私には、興味深かったかな。


会場だったbunkamuraの展示方法は、いつもセンスがいいなぁとうならされるけれど、今回も抜群の色彩感覚を発揮してくれていた。
赤と紫の背景ボードが、入場した瞬間に、絵の世界へと気持ちをもっていってくれる。なにげない色分けで、国籍分類しているという工夫も、さすがだなと。基本的に、見る人にやさしいのよね。

来年はポンペイ展やモディリアーニもくるみたいだし、ますますbunkamuraに行くのが楽しみだわ♪
by chatelaine | 2005-12-22 23:32 | アート | Trackback(5) | Comments(9)
続・『北斎展』レビュー/ほとんど虫の息で
前回、一時間ではみきれなかった『北斎展』の、後半の展示を鑑賞するべく、再び上野の国立博物館へ。前は特別鑑賞券をもらったので休館日に入れたのだけど、今回はちゃんと一般券を買って、ネットでの、やたら混んでいるとの評判におののきながら、それでも「富嶽三十六景」観たさに、足を運んでみた。

案の定、平日の真っ昼間にも関わらず、入場に40分待ちだった。こんなことって、土日ならまだしも、平日の美術館では初めてかもしれない。
木枯らしのなか、立ちんぼで待つこときっかり40分…いったいいつ行けば、待たずに入場できたのだろうか。


ようやく館内に入り、芋の子を洗うような会場の混みぐあいに辟易しながらも、ともかく目当ての後半の展示室へ。あまりの人出に、最初の部屋の「北斎漫画」は流れ作業で見終え、ともかく人に酔う前に「富嶽…(もはや声にもならない)」をと、這うように前に進んだ。

息も絶え絶えでたどりついた「富嶽三十六景」の部屋で、それでもやっぱり北斎の描く富士は美しいと思った。いろんな地方の、いろんな生活で見える富士山。あまり国内旅行をしたことのない私には、江戸時代の地名が現在のどの場所にあたるのかがわからず、たまたまとなりで自説を展開していた日曜学者の解説を、耳をダンボにして聞くしかなかった。

私は、シリーズのなかでも、有名な「凱風快晴」が一番シンプルで、好み。刷り方によって色調が変わるのにも、味があるし。
同じ部屋の「花鳥絵図」シリーズも綺麗だった!まるで華麗なる大判花札のような印象。

続く「百物語」シリーズでは、有名な四谷怪談のお岩さんが登場。なんだか京極夏彦の表紙になってそうな、ややコミカルなお岩さん。
私は「しうねん」が気に入ってしまった。たぶん「執念」の具象化だと思ったのだけど、「執念」と書くよりよっぽど未練がありそうな感じがして。

また同じ富士でも、90歳まで生きた北斎の、絶筆に最も近いとされる「富士越龍図」という掛け軸の絵には、北斎の魂というか執念を感じた。天に昇る龍が、まるで北斎そのものの。
しかし、「画狂老人卍」のサインには、なぜか笑いが止められない。卍って…しかも自ら「画狂」って…実は北斎って、とてもパンクなお人柄だったのではないかしら?


最後に図録がほしかったのに、最近カードに頼っていたせいで、なんと手持ちの現金が足りず!美術展にはめずらしく、手ぬぐいやタオルにも洒落たデザインのものがあったのに、結局、葉書ぽっちしか買えなかった…。
私が生きている間に、もういちど、このくらい大規模な北斎展が開かれることを祈るわ…しうねんあるのみ。
by chatelaine | 2005-12-02 23:47 | アート | Trackback(6) | Comments(6)