蜷川『リア王』レビュー/悲劇の世代交代劇

シェイクスピア作品の中でわたしが最も愛する悲劇、『リア王』が、蜷川幸雄と平幹二朗のコンビで上演中である。

「老い」「世代交代」がテーマの一つであるこの作品を、それと似た状況にある自分の家族を鑑みると、いまのタイミングで観ることには少し抵抗があったけれど、平幹リアが観られるのはこれで最後かもしれないという想いで、さいたままで足を運んだ。


やはり蜷川作品は、冒頭の演出に驚かされる。
ふすまのような、左右に開く幕が開くと、バックに松、左右には梅。まるで能か狂言の舞台装置である。そして、そこには重々しい毛皮をまとった王家の一族が勢ぞろいしている。
そのオールキャストの威圧感、軽んじられない空気感に、わたしの気持ちは一気に古代ブリテンの王宮へ行ってしまった。


一幕目は、リアの傲慢さとエドガーの人の良さに辟易するも、二幕目からが見ものである。

リアが荒野をさまようシーンの平幹二朗の狂気の演技。それも単なるきちがい役ではない。グロスター伯の言うところの「狂気の中にも、まだ正気がおありになる」状態を演じるのだから、その演技力たるや!
ジャンルは違えど、『カッコーの巣の上で』のジャック・ニコルソンの怪演を髣髴させる。

そんな狂気に捕らわれたリア王は異形であるのに、しかし平さんが演ると、これまた蜷川作品では常連の吉田鋼太郎とは違って、どこか高貴さが残る。
直近では『オセロー』のように、吉田さんもまた運命に翻弄され、狂おしいほどの絶望を体現する役が多いが、彼はどちらかというと豪胆な武将タイプ。気高いというのとは、ちょっとちがう。


さらによかったのが、一幕ではへなちょこだった忠臣グロスター伯の嫡男・エドガーの成長っぷり。
エドガーが失明した父伯爵の手を引いてゆく姿は、まさに世代交代の過程を描いているようで、リアの失敗した世代交代と比較する上で、とても興味深い。

親が老いる姿というものは、できれば目をそむけていたい。ましてや、親が傷つき、狂い、絶望する姿など見たくもない。

しかし、その姿をエドガーは眼を開けてしっかり見る。まるで、これまで嫡男として苦労知らずで生きてきてごめんなさいとでも言うように。
傷ついた父伯爵をおもんぱかり、自分の正体がばれないようにきちがいのふりをして、ゆっくり手を引き、父親の死出の旅路を誘導する。
このバックで流れる尺八のもの悲しさ。もはや能の情念の世界である。

グロスター伯が苦笑混じりに言う。
「きちがいがめくらの手を引く。世も末だ」
…そんなことはないのです。きちがいは、ふりをしているだけで、手を引いているのはあなたの息子なんですよ。何度そう言いたくなったことか。


これまで何度か原作を読んだ際に、エドガーという人物にはまったく興味を示さなかったわたしが、今回、こんなにも彼に共感してしまったのは、役を演じた高橋洋が魅力的だったからにせよ、涙をこらえながら老父の手を引くエドガーに、自分の姿を重ねてしまったせいかもしれない。

ラスト、すべての主要人物が死に至り、王国は崩壊寸前の重荷となる。そして、その重荷を、次代の王国を担うのは、それが自分の義務であると引き受けたエドガーなのである。

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「リア王」は面白いほど格言めいたセリフが多い。
ひとりにワンセンテンスは、身につまされる言葉が与えられている。

「知恵がつかないうちに年取っちゃいけないんだよ」(道化)

「我が儘な人間につける薬は、自らが招いた苦しみしかないんですよ」(リーガン)

「暗いところで俺を生んだ不義の報いに、めくらとなって死んでいく。人生はよくできている」(エドマント)

「人間、生れ落ちると泣くのはな、この阿呆の桧舞台に引き出されたのが悲しいからだ」(リア)
by chatelaine | 2008-01-24 03:45 | STAGE

欧州大好き、映画や舞台の偏向的レビューブログ。子連れになってリスタート。最近はもっぱら子連れ旅がメイン。


by yukiko