フランス文学における比較娼婦論

12月にシネ・オペラ版の『椿姫』を観にいって、連れに貸してもらった原作本。年をまたいでしまったけれど、ようやく読み終えることができた。


デュマ・フィス/吉村正一訳 『椿姫』 岩波文庫 読了

授業で聞いてはいたが、本作が『マノン・レスコー』の影響をここまで受けているとは驚きだった。作中にも、重要な小道具として、『マノン・レスコー』の本が登場するぐらいだから、影響どころか、作者はマノンをリスペクトしているといってもいいのかもしれない。

ひたすら類似点を挙げると、
第三者が主役の聞き手になり、物語全体の語り手になるという構成。
娼婦マノンと娼婦マルグリットの金遣いの荒さと奔放さ。
このふたりの娼婦に入れあげて、辛酸を嘗めつくすふたりの青年貴族、デ・グリューとアルマンの苦悩。そしてふたりとも金に困って、賭博に身を投じるという展開。

しかし、相違点ももちろんある。『マノン・レスコー』では、デ・グリューは自分の父親とも決別し、二人で逃避行したあげく、マノンは野垂れ死にするわけだが、『椿姫』の方では、アルマンの父親の嘆願を聞き入れたマルグリットが、アルマンを愛するがゆえに身をひくという、けなげな形で終わっている。

「あなたはアルマンを愛していなさる。それならばそれで、その証拠を見せる方法がたった一つだけあなたにある。だから、それをば倅(せがれ)に見せてやっていただきたい。つまり、倅の将来のためあなたの恋を犠牲にしていただきたいのだ」(アルマンの父)


マルグリットが愛に目覚め、改心し、アルマンを想って身をひくという点で、本作の方が純愛度は高く、結核で死んでしまうというラストも悲劇性に富んでいる。
赤ではなくて、白の椿の花も、未来にマルグリットは無垢と純潔に戻るという象徴、暗示ではなかろうか。

「つまり、この女はふとした事のはずみで処女から娼婦になってしまったので、だからまた、ふとした事のはずみさえあれば娼婦からこの上もなく情のある純潔な処女になれるということはだれしも気がついていたのです。」


『マノン・レスコー』では、マノンの客観的な魅力が理解できず、マノン側の心の描写も一切ない。ゆえにマノンに感情移入しにくいのだが、『椿姫』は、作曲家ヴェルディが泣きながら読んだというのがある程度わかるぐらい、マルグリットに感情移入しやすい。

また、アルマンと別れてからの彼女の苦悩が、病気による衰弱が、読む側の同情を誘うということもあり、演劇化に向いているともいえる。もちろん、ミュシャのポスターでおなじみの、人気女優サラ・ベルナールが主演したことも、演劇版『椿姫』の成功の一因だと思うけれども。


作者については、かの大デュマの息子ということで、ペール(息子)という尊称(?)がついているが、これが菅原孝標の女(むすめ)とか、藤原道綱の母という、日本古典の文学を髣髴させる。古今東西に同じような感覚があったのかと思うと、なんとなくおかしみを感じてしまった。
by chatelaine | 2006-01-03 23:03 | BOOK

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