檜俊輔の美学講座

一冊の本を読むのに、これだけかかずらっていることも珍しい。
そしてこの本には、もっと早く、できれば2年ぐらい前に出会っておきたかった。そうすれば、これまでの授業で、もう少し深みのあるレポートが書けた…はず。

三島由紀夫『禁色(きんじき)』新潮文庫

その醜貌ゆえ、女に拒まれ続け、女性一般を憎むようになった大作家・檜俊輔が、女を愛せない美貌の青年・南悠一を使って、自分をもてあそんだ女性に復讐していくという、なんとも屈折した長編心理小説。
ラストには、檜先生までも悠一の普遍的な美の虜になって、莫大な遺産を託して自殺する。

ストーリーだけ聞くと、エンタメ要素に富んでいるのよね。『モンテ・クリスト伯』と『ヴェニスに死す』と『危険な関係』をごっちゃにした感じで、いかにもな展開と救いのなさが昼メロ的。

しかしそこは三島ですから、軽々しく読むとヤケドするかも…と思って読み進めていたら、案の定、少し読んでは頭を冷やし、また少しページを繰っては酔いを醒ます、というペースで読まないと、日常生活に支障をきたすことが発覚した。
というわけで、病まない程度のペースで読み進めることにする。

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主軸からは脱線するが、檜先生のご高説のシーンより。
講演テーマは、本作を貫く要素でもある、「美」について。

「本当の美とは人を黙らせるものであります…そういう信仰が滅びなかった時代には、批評にもおのずから職域があった。批評は美を模倣することに尽きたのであります」

「しかるに、美が人を黙らせるという信仰は、いつかしら過去のものとなるにいたりました。もはや美は人を黙らせず、たとえ美が宴の只中を通り抜けても、人々はお喋りをやめないようになる」

「京都へいらした方は、竜安寺の石庭を必ずや御覧になった筈でありますが、あの庭は決して難問ではない、ただの美であります。人を黙らせる庭であります。ところが滑稽なことに、御庭拝見にまかり出る近代人は黙るだけで満足しない。何か一言なかるべからずというので、俳句をひねり出すようなしかめ面になる。美が饒舌を強要するようになった。美の前へ出ると、何か大いそぎで感想をのべる義務を感じるようになった。美をいそいで換価する必要を感じるようになった」

「美はいたるところで人々を喋らせます。おしまいには、この饒舌のために美が人工的に(というのはおかしな表現ですが)増殖されるにいたる。美の大量生産がはじまるのであります」


…この講釈を膨らませれば、「美と模倣」といういつかの課題が、一気に書けたような気がする。

竜安寺のたとえは非常にわかりやすい。
現代において、このような状況下なら、「なにか感想を言わなくては」という意識がわきおこるのが一般的だと思う。もっと卑近な例でいうなら、それほど近しくない友達と映画を観て、観終わったあとに、「なにか言わないと」的な強迫観念が生じることもそうだ。この強迫観念を嫌って、映画は一人でしか観ないという友人を知っているし、私自身も身におぼえがある。

ただ、私は何かをみて、たとえば、旅行先での絶景でも、上野の美術展の作品でも、とにかく感動すると、それを言葉にしたくなる。批評とは少しちがう(と自分では思っている)が、もしかすると、いっちょまえにしかめ面までしてしまっている可能性大!

まぁ、そもそもこうやって美術展や小説の感想をブログに書いている時点で、「饒舌」なのであり、「美の大量生産」に加担しているということなのだから…。思っている以上に、どうしようもなく滑稽な「近代人」なのかもしれない。
by chatelaine | 2005-12-09 23:16 | BOOK

欧州大好き、映画や舞台の偏向的レビューブログ。子連れになってリスタート。最近はもっぱら子連れ旅がメイン。


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