『須賀敦子の世界展』と記念講演会レビュー

神奈川近代文学館で開催中の『須賀敦子の世界展』へ行ってきた。待望の須賀敦子回顧展で、電車の中吊りで見つけたときには、喜びのあまり小躍りしそうになった。
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須賀敦子という作家は、その流れるような文章でヨーロッパの精神世界を掘り下げ、わたしの人生に大きな影響を与えた大好きな作家。
須賀さんの内省的でインテリジェンスな生き方に憧れるあまり、彼女のようにイタリアやフランスで生きたいと思ったこともあったけれど、覚悟のないわたしにはそれは叶わず、須賀敦子の足跡をなぞる旅で自分を納得させたこともある。


今回の展覧会では、幼少時代からフランス・イタリア留学を経て作家となり、闘病に至るまでの、須賀敦子ゆかりの品々が展示されていた。とりわけ、写真や書簡が多く、特に直筆の書簡は作品からはわからない須賀さんの想いが書かれていて、思っていたよりも見るのに時間を費やした。


同日、須賀敦子の担当編集者だった、評論家の湯川豊氏の講演会「須賀敦子を読む」も聴講。
なぜ、彼女の文章は読者を惹きつけるのか?という視点において、とてもわかりやすく解説してくれて、本を読み、評論や解説を聞き、自説を展開していた学生時代を懐かしく感じた。やっぱりわたしは文学が好きなんだなあ。

以下、講演メモ。

・須賀敦子は、決して美文ではないが、美しい文章体が特徴。何が書かれているかより、どのように書かれているかが大事。

・例えば、須賀が身を投じていたカトリック左派の運動や理論についてはあえて書かれておらず、人間関係を物語として捉えて描き、彼らの理論は会話や行動の端々に少し表れる程度である。それが、須賀敦子の文章の魅力。

1)文体を確立すること
2)物語をエッセイに導入すること

1)については、ナタリア・ギンズブルグ「ある家族の会話」の翻訳に出会うことで、文体を作りだすことに目覚める。過不足のないうねるような文章体はここで磨かれたと言える。

2)について、処女作「ミラノ 霧の風景」は、記憶の曖昧さを利用したエッセイで、それ以降の作品は比較的はっきりした記憶に基づいて構成されている。

確かに、最初に「ミラノ~」を読んだときに、こんなに漠然とした記憶のエッセイというものがあることに驚いた。タイトルの通り、霧の中の記憶をさぐるような、こんな書き方があるなんて、と。

・「ヴェネツィアの宿(家族がテーマ)」「トリエステの坂道(ペッピーノがテーマ)」では、物語を描くことで人物を立ち上がらせている。父母のことを直接的に書いたのは4編のみ。あとは、遠回りに示したもの。

湯島氏によれば、小説を読む最大の機能は、登場人物に共感することによって、なぐさめられること、救済されること、だそう。
それはつまり、小説とは、辛いときに読むことを想定されているのだろうか?


ちなみに、こういう世界観にどっぷり浸りたい展覧会には息子は連れてこないことにしている。この日も、夫と山下公園で遊んで待っていてもらった。お互いのために、この方が幸せである。
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【湯川氏が選ぶ、これぞ須賀敦子な文章】
「それぞれの心にある書店が微妙に違っているのを、若い私たちは無視して、一途に前進しようとした。その相違が、人間のだれもが、究極においては生きねばならない孤独と隣り合わせで、人それぞれ自分の孤独を確立しないかぎり、人生ははじまらないということを、すくなくとも私は、ながいこと理解できないでいた。
若い日に思い描いたコルシア・ディ・セルヴィ書店を徐々に失うことによって、私たちはすこしずつ、孤独が、かつて私たちを恐れさせたような荒野でないことを知ったように思う。」
(『コルシア書店の仲間たち』より)
by chatelaine | 2014-11-03 23:48 | BOOK

欧州大好き、映画や舞台の偏向的レビューブログ。子連れになってリスタート。最近はもっぱら子連れ旅がメイン。


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