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学生のとき、パリのセーヌ河畔でポスターをひとめ見て虜になってしまった写真家、ロベール・ドアノー。そのときには、そんなに有名な写真家だったとは知らなくて、これは一期一会かもしれないと、その場でフランス語の写真集を買ってしまうほどだった。
あのころから、もうすでに10年経ってしまったけれど、東京で回顧展『生誕100年記念写真展 ロベール・ドアノー』が行われると聞いて、当時の新鮮な気持ちがよみがえってきて、はじめて東京都写真美術館へ行ってみることに。しかし、恵比寿ガーデンプレイスはオトナ向けで、なんとも落ち着く場所だなあ。 ![]() 第二次大戦後のパリで活躍し、市井の人々の日常を切り取った作品は、どれもセンスが秀逸。 これまでわたしは、代表作『パリ市庁舎前のキス』(この写真で恋愛の都・パリへのあこがれが募ったものだった…)を筆頭とする「恋人たち」シリーズと、思わずにんまりしてしまうユーモアをたたえた「ギャラリー・ロミ」シリーズが好きだった。 が、今回の展示ではじめて観た「ポートレート」シリーズが、被写体の個性を絶妙に写し出していて、たいそう面白かった。 ピカソやコクトーやボーヴォワールなど、同時代の有名人を撮影しているのだけれど、いちいち遊び心が溢れることといったら! 特に、ジャコメッティとレイモン・サヴィニャックはすごく愉快なポートレートに仕上がっていて、ロベール・ドアノーは本当に人が好きで、被写体のアーティストたちもロベールのことが好きだったのだなぁと。 また、子どもに焦点を当てた作品群は、どれもほのぼのして、くすっと笑えるのだけど、その中でも特に、『リヴォリ通りのスモック姿の子供たち』という作品にシンパシーを感じた。一列に並び、前の子のスモックをつまんで、カルガモの雛のように、道路を渡る子どもたち。園児を持つ母親なら、微笑まずにはいられない作品だと思う。 仕事中の癒しのために、この写真のクリアファイルと絵はがき、そして今回は展覧会の図録も購入してしまった。 「ポートレート」シリーズを除いては特別な被写体ではないし、本当に、単なる日常のひとコマなのだと思うのだけど、こんなにセンスよく一瞬を切り取れるなんて、ロベールはよほどの観察眼の持ち主で、忍耐力のある人だったんだろうなと。 パリの街が、5割り増しで好きになること間違いなしの展覧会だった。
昨年、大活躍だった園子温監督の話題の作品、『冷たい熱帯魚』を、ついに夫と一緒に観た。
日本アカデミー賞の式典の際に、水道橋博士が、「蝉より熱帯魚だろ」とつぶやいていたことをふと思い出し、わたしが観たいと言いだしたのだけれど、これは…カップルで観るにはあまりにも向いていない作品なのでご注意あれ。 わたしはエログロOK、というかむしろ観たがりな方だし、わが夫は映画のカテゴリーにかかわらず淡々と観るタイプなので、最後の方はもはや二人とも苦笑いしながら観ていたのだけど、予想以上に描写がエグく、うわさ以上にエキセントリックな作品で、そんじょそこらのホラーやミステリーでは揺るがずに眠れるわたしも、今回ばかりは本当に夢に出てきた。 まず、血がダメな人、エグイ描写がダメな人、不条理ものがダメな人は合わない作品。本当に観る人を選ぶ。 ただ、わたしは拷問シーンなどの「痛い」シーンがダメなタイプだけど、本作の場合、目玉となる「解体ショー」の時点ではもはや死人なので痛みは感じず、目を背けることなく観ることができ、妙な達成感があったり。 (「SAW」シリーズでは、被害者たちの絶叫が目にも耳にも痛くて、何度も目をそむけたのだけど) まったくもって万人にお薦めできるような作品ではないのだけれど、なんというか、すべてにおいて突き抜けているので、怖いもの見たさでトライして損はない…かも。 とにかく、助演のでんでん&黒沢あすかの、想像を絶するぷっつん演技が見どころ。 でんでんは怪演に次ぐ怪演で、人の良さそうな熱帯魚店の社長役から、完全にぷっつんしている殺人鬼を演じている。殺人鬼の妻役の黒沢あすかは、でんでんに輪をかけて、そのキャラクターの持つサド性マゾ性を演じ分け、偏執狂なまでのギャップを表現している。 ふたりともなにかが乗り移っている、というか、殺人鬼スイッチが入ると、それまでの「良い人」からの振れ幅がすごい。 「ボディを透明にすれば問題ない」と言って行う解体シーンは突き抜けている。一度でもう充分なのに、これでもかというぐらいに、三度も同じようなシーンがあり、もはや、観ている方も、感覚がマヒしてしまって、翻弄される主人公の吹越同様、慣れてしまうのがすごい。 さらに、本作は実話をベースにしているというのだから…まさに、事実は小説よりも奇なり。
昨年、ベルリン映画祭史上初の作品賞・女優賞・男優賞の3冠を達成し、アカデミー賞の外国語映画賞を受賞したイラン映画、『別離』を観に行ってきた。
ベルリン映画祭が話題になるたびに思うけど、「金熊賞」「銀熊賞」って、ネーミングがすてき。ベルリン市の紋章が熊だから、という理由らしいけど、妙に意味深で高尚な感じがする。 ![]() 本作は、結果的にある家族がバラバラになる話で、宗教、男女間・階層間格差、介護、教育と、イランが近代化するにつれて膨らんできた社会問題をいくつも扱いながら、決して難しい内容ではなく、むしろふとしたことから露呈する迷いや葛藤、嘘、弱さを描いている。 シンプルな作品タイトルからも想像が広がるように、受け止め方がいろいろありそう。 ![]() ある中産階級の家庭。進歩的な考えの妻・シミンは、娘の教育のためにイランを出たくて仕方がない。対して、夫・ナデルは、父親の介護のためイランを出る気はない。シミンは、移住のために夫との離婚を認めてほしい、と離婚調停に訴えるが、裁判官は訴えをしりぞけ、さしずめ作品全体のオープニング・クエスチョンのように、シミンに問う。 「あなたはイランが子どもを育てるにふさわしくないとお考えなのか?」 日本で子育てするわたしにとって、イランという国を、「子育てするにはふさわしくないと考える」のはたやすいことだ。しかし、生まれ育った地を捨てて、家族と別れてまで子どもと移住するという主張に、ふと、福島での原発事故が頭をよぎった。 あの地震直後の日々に感じた、放射能の言いようのない不安。本気で移住を考えた人も多いと思うし、実際、 日本ではもはや子どもを安全に育てられないのではないかと、海外脱出を試みた家族もいると聞く。 わたしには移住の決断はできなかったが、シミンのこの決意には、原発問題ときの自分の心境に近いものを感じ、親近感をおぼえた。 が、夫が離婚に同意しない以上、娘を伴っての移住は不可能。娘の方も、冷静を装いながらも、なんとか両親の仲を取り持とうとするのが、見ていて痛々しい。 ![]() しびれを切らして実家に帰った妻の代わりに、夫は、ラジエーという、自分たちよりも階級の低い女性に介護を依頼する。そして、この敬虔なムスリムであるラジエーとの間でいさかいが起こり、生命倫理に関わる事件に発展する。 事件の渦中で見えてくる、社会の階級差による価値観・倫理的のギャップが興味深い。イランといえばイスラム国家で、全体主義的なイメージがあったが、現実には、信仰心に対する思いや金銭に関する感情は、階層や性別によって多種多様なんだなと感じた。 【以下、ネタバレあり】 「なぜラジエーは流産したのか?」 真実はひとつのはずが、まるでミステリーを見ているかのように、関係者の証言は入り乱れる。 「ラジエーが妊婦とは知らなかった」と証言したナデルは、娘にだけは「実は妊婦だと知っていた」と打ち明ける。 「ナデルに押されて流産した」と主張していたラジエーは、コーランに誓えるかと問われ、「流産のほんとうの理由はわからない」と土壇場で意見を撤回する。 ラスト、別れを決意した両親のどちらについていくか、娘・テルメーの出した結論は、観客にはわからないままだった。 そしてまた、福島原発事故の影響は、現状もうそとほんとうが入り混じり、本当のところは「わからない」ままだ。 人間のあいまいさと弱さは、多くのすれ違いと悲劇を呼び、無情な別れに至らせるものだと、あらためて感じた作品だった。
夫と一緒に『セザンヌ ~パリとプロヴァンス展』に行ってきた。
1年ぶりくらいに訪れる国立新美術館は、これなら息子を預けなくてもよかったかな、というぐらい、予想よりも空いていて、スムーズに観ることができた。 ![]() 実を言うと、セザンヌのことは、そこまで好きな画家というわけではなく、果物の静物画の人、ぐらいの認識しかなかった。 今回、100%セザンヌな展覧会で、これだけじっくり彼の作品ばかり観てみると、いろいろなことに気づいた。 プロヴァンスといえば地中海のイメージが強かったけれど、同時に山の緑の豊かなこと。 りんごの静物画にはあたたかみがあって、「静物画」という言葉の響きから連想する冷たさがないこと。 テーブルナプキンの皺とか、ダマスクス柄の織物の文様とか、一見無造作に見えるりんごの配置も、実は計算しつくされ、作りこまれているということ・・・。 で、こういう画家に焦点を当てた企画展だと、作品はもちろんだが、画家本人に興味が出てくる。 セザンヌは、りんごをモティーフに100点以上の作品を描いたり、お気に入りの陶器を十何年にもわたって描き続けたり、なかなかこだわりは強そうな御仁だ。 プロヴァンスの裕福な家庭の出身だが、田舎者であることには間違いなく、都会の貴族出身のドガを敵視していた、というエピソードも人間味があって面白い。 とはいうものの、当時の文化の粋を集めた花の都パリと、自然の美しいプロヴァンスを行ったり来たり、デュアルライフを送っていたよう。 なんとも贅沢なライフスタイル。 最後に展示されていた、プロヴァンスのアトリエの再現も、セザンヌのお気に入りのものたちに囲まれた生活を想像させる、とても興味深い内容だった。 国立新美術館は、5月にも、『エルミタージュ展』のために来館する予定。 帰りがけにポール・ボキューズのメニューをちらっと見たら、キッズランチができていたので、次回は子連れランチしたいところ。
読み終えてから時間が経ってしまったが、山崎豊子の『運命の人』の感想を、以前twitterでつぶやいた内容を再構成しつつ、つらつらと。TBSのドラマと平行して読んでいたので、どうしても比較しがちになってしまったけれど。
時代設定が沖縄返還前後ということで、当時の世の中の新聞への信頼感や、その影響力の強さと、こんなにも新聞記者の社会的ステイタスが高い時代があったのか、ということにまず驚いた。 テレビもまだこれから、という時代において、いかにメディアとして新聞の持つ力が大きかったか。また、それに伴う責任が、とりわけ「情報源の匿秘」という意味において、いかに大きかったか。 このあたりのジャーナリズムのあり方は、ソーシャル化が進む現在のメディアと比較し考察するにも、大変興味深いテーマだった。 本作の主人公・弓成亮太を見ていると、新聞記者とは本来、政治家に匹敵するか、もしくはそれ以上に政治・外交・経済の知識をもたなければならず、さらに政治家以上に正義感がなくしては、全うできない仕事なのだと思う。 そうした面では、弓成記者は、「政治の不正を暴き、国民の利益を守る」という崇高な信念をもった人物であり、これまでの山崎作品の系譜である「信念を貫く主人公」であることは間違いないのだが、一方で、仕事相手に「ひそかに情を通じ」てしまうなど、なんというか詰めが甘く、人間的な弱さがある。(『白い巨棟』の財前教授も聖人君子とは言えないけれど) まあ、その弱さゆえにこの物語は展開していくのだし、物語の終盤にむけて、弓成記者の人間的魅力が増すのかもしれない。 ドラマの方は、全体的に「妻と愛人」の構図がクローズアップされすぎ、当て馬役の建築家も頻繁に登場しすぎでやや辟易した。専業主婦で夫と家庭を支える貞淑な妻と、外務省勤めの才色兼備な愛人の対立は、テレビ的には画になるんだろうけど、やっぱり小説よりも低俗な印象は否めない。 また、原作では1/4を占める沖縄戦の過酷なエピソードが、ドラマ最終回の沖縄編では薄すぎたように思う。原作を読んだとき、山崎さんは本来これを書きたくて、外務省機密漏洩事件をトリガーにしたんじゃなかろうか、と思ったぐらいインパクトがあったのだけど。 さらに、最終回にいたっては、「運命」という言葉が多用されすぎていた気がする。どんな文学作品でもそうだけど、作品のタイトルや、テーマにあたることを、作中で連呼されるのは興ざめである。 ・・・と、全体的にドラマには辛口な印象をもったけど、裁判のシーンはテレビにすると、緊迫感が伝わってとても映えるなあと。キャスティングもぴったりだったし。 しかし、これは山崎豊子作品全般において言えることだけれど、高度成長期とはいえ、ほんとに主人公の奥様の献身っぷりには頭が下がる。 普段から仕事人間で家庭を顧みず、仕事でミスして逮捕され、さらに不倫していたことが裁判で白日の元に晒されて、週刊誌にも散々に書かれ、長い裁判の末に有罪になった挙句、妻子をおいて沖縄に遁走した夫を赦すなんて、わたしには神としか思えない。 これまで、民放ドラマ『白い巨塔』『華麗なる一族』『不毛地帯』『運命の人』、さらに映画『沈まぬ太陽』と観てきたけど、やはり断トツで記憶に残っているのは、NHKドラマ『大地の子』。これはもう別格。 いつか息子と一緒に観て、感想を分かち合いたいもの。
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